一歩一歩、山の頂にある召喚台へと近づいていく。今ほどセルクルの脚の速さをこんなにも疎ましいと思ったことはない。 峠を越えて、林の道を抜ければ姫様の待つ召喚台への長い階段はすぐそこだ。それこそもう、すぐに、着いてしまう。 私に与えられた時間は、そのほんの少しの間だけだ。 「全く、最後まで貴様のお守りとはな」 寂しいという気持ちを押さえ込むようにして、憎まれ口を叩いた。 「そう言うなって。見送ってくれるのがエクレで、僕は嬉しいよ」 だというのに、勇者はいつものあののほほんとした調子で、返してくる。 嬉しい、だと?心にも無いことを。そんな貼り付けたような笑顔では説得力というものがまるで無いではないか。 …それなのに、私は奴のそんな一言で揺れる心が落ち着いて嬉しくなって、そのすぐ後にざわついた。 一時帰郷だとか次の長期休暇にまたやって来るだとか、そんな嘘で塗り固めた別れなど、我々を裏切ったも同然だ。 けれど、そう振舞ってしまうのが、この勇者シンクという男なのだ。 残される私たちに悲しい思いをさせない為に、もう会えないという絶望を与えない為に。 全くとんだ自意識過剰男だ。そんなに自分が皆に好かれていると思い込んでいるのかこのアホ勇者は。…まぁ、実際好かれているのだからタチが悪い。 「ふん。姫様はもう、召喚台で送還の準備をしておられる。我々もあんまりのんびりはしておれん」 「うん。あ、それでね、エクレ」 「うん?」 先導していた私に並ぶように、セルクルを操舵して勇者が近づいてきた。 「お古で悪いんだけど」 差し出された手には、今しがたまで手首に嵌めていたリストバンドが乗っている。 「よかったらこれ、貰ってくれないかな?」 眉の端を下げた、ばつが悪そうな顔で勇者は私のことをじっと見てくる。 その、変に甘えたような、それでいて意地でも受け取らせようという気持ちの篭った視線に私の心拍数が跳ね上がる。 「…ま、まぁ預かっておく…」 「ありがと」 そうでも言わないときっと勇者は折れることなどしないのだろう。 …私には何もくれないのかとやきもきしていたから、受け取る際に軽く触れた指先が今になって熱を帯びてきた。 「…そ、そういえば何やら、皆にも配っていたな」 「うん。ダルキアン卿と騎士団長には、財布に入れてた記念コインを一個ずつ。ユッキーには携帯ストラップ。あとは…」 「形見分けのようで、あまり感心しないな」 記念品を貰えて嬉しいはずなのに、私の言葉は自分でも驚くくらいに棘だらけだった。 「そうかなぁ」 「そうだ」 そうだ。これではまるで、本当に永遠の別れのようではないか。貴様は最後まで「また会える」という嘘を吐き通すのではなかったのか。 私が勇者の言葉を撥ね付けると、途端にお互い黙りこくってしまう。ただ、セルクルの足音だけが規則正しく響くだけになった。 「…やはり、送還されたらもうフロニャルドには来られないのか」 「えっ」 短い沈黙。答えられないならそれはもう肯定と同じだ。 私はもう真実に気づいている。それを判っているのか、勇者は目を伏せ気味に頷いた。 「…うん」 言葉を交わさないまま、木漏れ日の揺れる林道へと足を踏み入れた。ここを抜ければ召喚の台座は目と鼻の先だ。 「なんか、記憶も失くしちゃうらしいよ。こっちで過ごした日々のこと……いつ…気づいたの?」 「リコの様子を見ていれば、誰でも分かる」 まぁ、ちゃんと隠し通せた者も少なからずいるようだが。 おかしいと気づいたのは姫様のライブの翌日あたりからだ。リコが学院に篭るようになったことと、そのすぐ後、勇者の挙動がおかしくなったから。 まるで残された日々を後悔の無いように思い切り過ごそうと躍起になっているように見えたからだ。 「そっか」 勇者の返事は素っ気無い。やはり心当たりもあるのだろう。 「しかし、来る時は簡単だったと聞いているが、帰る時はそんな事になるとはな」 言葉を切って、吐き捨てるように呟く。 「馬鹿げた話だ」 「うん。まぁ、忘れないけどね。…フロニャルドで起きた事も、みんなと会った事も」 こんな雰囲気で何を思い出したのか、勇者はふふっと軽く吹き出した。 「怒りっぽくてすぐ蹴るけど、強くて真っ直ぐな親衛隊長と…エクレールと、一緒に居た事も…」 …馬鹿者が。貴様は私を褒めたいのか貶したいのか、どっちなんだ。これではいつものように貴様を蹴り飛ばせないじゃないか。 最後まで貴様を足蹴にして、貴様に対しての未練を断ち切ろうとしていた私の計画が台無しじゃないか。 「…私はっ」 まだ何か言いたそうにしていた勇者を怒鳴りつける。 言いたい事なんていくらでもあるが、言いたい事が固まった上で口を挟んだ訳ではなかった。だから、途切れ途切れに頭に浮かんだ言葉を出力していく。 「…貴様の事など、憶えている自信は無いな」 嘘をひとつ、ついた。 目頭が潤み、顔が熱くなるのを感じて顔を上げる。まだだ、まだ流すには早い。 「訓練に戦に外交に、私も日々忙しい」 矛盾と嘘を紡いで、私は貴様と離れたくないという軟弱で解析不能な感情を突き崩そうとする。無理だと解っていながらも、懸命に。 「…寂しいなぁ」 「…忘れられて寂しいなら」 …私の気持ちがやっと解ったか、馬鹿者め。 手綱を引いてセルクルを促す。くしゃりと歪んだ顔を見せないために、始めと同じように私は勇者の前を行った。 「…忘れて欲しく無いなら…何があろうと、貴様も我々を忘れるな」 声が震えないように、瞼に溜まった本音を零さないように、一人の女としてではなく、親衛隊長として、別れを告げた。 …ほんの少しだけ、本音を付け加えて。 「それから…割と早めに帰って来い」 「…うん。きっと」 遠くの浮島から、淡い光の柱が天へと昇っていく。ビスコッティの勇者のご帰還だ。 その光景を眺めていると、奴と過ごした日々のことが頭の中をぐるぐると駆け巡っていく。 「…全く、清々する」 心にも無い事を、呟いた。…ただの独り言だ。この場で聞く者などセルクル二羽しかいない。 最後の最後まで、流すまいとしていた涙が堰を切ったように溢れ出してくる。 あとからあとから流れ出して、目に焼き付けようとしたその光の柱がぐにゃりと歪んでよく見えてくれない。 「…忘れてなどやるものか。ずっとずっと、私は貴様を忘れない。そして、帰ってくると信じて待ち続けてやる」 どうだ、最高の嫌がらせだとは思わないか?顔を合わせる度に憎まれ口を叩いて、すぐに貴様を蹴飛ばすような女が死ぬまで貴様の事を覚えているんだぞ。 私は頭が固くて怒りっぽくて、負けず嫌いの脳筋女だ。そんな女が貴様に預けられた布切れ一つを一生大事に守り通そうとしているんだぞ。最高に気持ち悪かろう。 だからこれは貰ったのではない。預かっておくだけだ。必ずまた受け取りに戻ってこい。そうじゃないと、絶対に許してやるものか。 「…シンク」 結局、最後まで呼ぶことのなかった名前を口にした。 呼び慣れない名前のおかげで舌が回らない。 「…シン、ク」 嗚咽が漏れてうまく呼べない。泣いているのか。この私が。女々しすぎるだろう。 私は鉄面皮の騎士団親衛隊長、エクレール・マルティノッジだぞ。その私がたった一人の男の為に涙を流すなど言語道断だ。 だからこれは雨だ。そうに違いない。…愛しているなど、ありえない。 「…シンク…シンクぅ…」 貴様ともっと話しておけばよかった。声が聞きたい。また、私の名前を呼んでくれ。 貴様が居なければ私の訓練相手は誰が勤めるんだ。騎士団には私と張り合える者など貴様以外に誰も居ないんだぞ。 貴様が居たから…私は強くなれたのだ。貴様が居ないと、私は駄目になってしまう。どうしてくれるんだ。 「…シン、クぅ…」 光の柱が霧散して、雲の切れ間に涙色の空を見た。 私はリストバンドを握り締め、彼の残り香を感じながらその場に崩れ落ちる。 送還の際のフロニャ力の粒子が火の粉のように舞い、すぐ脇を通り越していった。 辺りは静寂に包まれ、私の泣き声だけが響いていた。 騎士でも、親衛隊長でも何でもない、ただの私の泣き声が。 「おや、目元が赤いですよ、親衛隊長殿」 朝からエミリオがにやにや顔で痛いところを突付いてきた。減給降格にしてやろうか。 「五月蝿い。そんなことはない」 「大の仲良しが帰ってしまわれましたからねぇ。しかし、すぐまた会えるんでしょう?」 「やかましい。無駄口を叩いてる暇があったら剣の一つでも振っていろ」 ずずっと洟をすする。結局、一晩中泣き明かしてしまった。 ああ、やっぱり私、ひどい顔なんだろうなぁ。初日からこれではこの先が思いやられるというものだ。 懐から「預かり物」を取り出して眺めた。…やっぱり私は貴様が居ないと駄目らしいぞ。心にぽっかり穴が開いて、どうにも風通しがいい。よすぎる。 「…あほシンク」 こっそりと名前を呼んだけれど、返答などあるわけがなかった。 「エ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜ク〜〜〜〜〜〜〜〜〜レ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜!!!1!!11!!」 「ほぎゃあ!?」 ただの独り言を聞かれたのかと思い、焦りに焦って手にしたそれを後ろ手に隠して声の主をきょろきょろと探した。 果たしてそれはすぐに私の目に留まる。訓練場の向こう側、だぼだぼの白衣を着た亜麻色の髪の少女が息を切らせて爆走してきていた。 「エっ、エク…はぁ、はぁ」 「お、おいリコ!訓練中に中庭を突っ切る奴があるか。危ないだろう。もっと迂回するとか…」 「そっ…そんあこtより、はぁ、はぁ…エkっ…ぜぇ、ぜぇ…ゆう…おえっ」 えずくな。落ち着け。 「はぁ、はぁ…えと…えっとですね…エクレも、勇者様に何か物を頂いているでありますか?」 「はぁ!?…い、いや、あれは貰ったんじゃなくて預かって…」 「頂いているんでありますね!!!1!??」 顔を真っ赤にして鼻息も荒く、リコがずずいと乗り出してくる。何がどうなっているんだ。さっぱり話が見えない。 「いや…その…こ、これだけど…」 「はあぁぁぁぁ…!だ、第一関門突破であります…!!」 肺から胃から何から、体の中身を全部吐き出してしまいそうなほど大きな安堵のため息をついて、リコはふらふらと千鳥足を踏んだ。 「お、おい、大丈夫か?リコ」 「他にはッ!!?」 「うえぇっ!?」 「他に誰か、勇者様に物を頂いた方をご存知ではありませんかッ!!!11!1??」 どう考えてもただ事ではない。この赤さと強引さ。天地がひっくり返るようなことでもあるのか? 「た、確か…ユキカゼにすとらっぷ?を…兄上とダルキアン卿に記念硬貨だかを…」 「ユッキーにダルキアン卿に騎士団長でありますか!?第二関門どころかほぼチェックメイトであります!!!1!!!」 「…はぁ」 さっきまでの疲れはどこへやら、リコはすっくと立ち上がると、城の一番高い場所…姫様のお部屋を睨みつけるようにして仰いだ。 「そろそろ説明してくれ、リコ」 「…もしかしたら、もしかするんであります」 「…うn?それってどういう…」 私が言い切る前に、リコは駆け出してしまっていた。 「エクレっ!あとでそれ、貸してもらうかもしれないであります!!」 「え゛っ…ちょっ、リコー!?」 か、貸すって…コレはちょっと昨夜私の涙やら鼻水やら涎やらその他いろんな液が染み込んでしまっていて…。 「勇者様の再召喚の為でありますーーーーっ!!!1!」 え…? 「えええぇぇぇーーーーーーーーっ!!1!!!11???」 オワリ