ブラクマールの路地を歩く。赤黒い石で作られた石塀の豪奢な屋敷の角を曲がる。
緩く登る坂を進んだ小高い丘の上、燃えたぎる血の印章を掲げた屋敷が、シュルヴェステルの目的地だ。
「兄さん!!」
門扉を開けるより早く、ひとりの女サクリエールが屋敷から飛び出した。
ドレスの裾をさばいて駆け寄る彼女は、シュルヴェステルの妹だ。
「よぅ、シシリー」
久しぶりだな、と片手を挙げる。彼女はそれだけで花のような笑顔を咲かせた。
門扉から屋敷へのわずかな距離を、彼女と一緒に歩く。
「お帰りなさい兄さん。最後に帰ったのはいつだったかしら。もう、ずっと寂しかったのよ。兄さん、」
「シシリー姉、畳み掛けすぎだって」
玄関の扉の前で待っていた青年が、彼女の言葉を止めた。
「おう、シベルじゃねーか」
「ヴェス兄、久しぶりぃ」
彼は末の弟だ。シュルヴェステルが片手を挙げると、それに合わせて手の平を打ち付けた。ぱちん、といい音がした。
「シング兄が待ってんよ。シトラ姉は仕事で帰ってねーけど」
家督を継いだ次兄と、長姉の名前を出す。
シュルヴェステルの兄弟は多い。兄が2人、姉が1人。妹が2人と弟が1人だ。彼は7人兄弟のちょうど真ん中にあたる。
父親は戦争で死に、母親は田舎で静養している。そして、長兄と、シュルヴェステルのすぐ下の妹はもう帰らない人となっている。
親戚連中を除けば、実質5人しかいない。そのシュルヴェステルも別に居を構えている。
放浪するシュルヴェステルが実家であるこの屋敷に帰るのは稀だ。
「おう。……シシリー、くっつきすぎだ。歩けねぇだろ」
子供のように懐く妹をたしなめる。片目しかない彼女はそれでも離れない。
「もう帰さないからね。監禁して私のモノにするんだから」
「てめぇのチャチな檻なんざ、ブチ壊してやるよ」
兄が好きすぎて何処か壊れてしまった妹の不穏な一言にシュルヴェステルは買い言葉で返す。
いつもの光景なので誰も口を挟まない。これがこの兄妹の会話なのだ。
妹と弟を連れて玄関を通り、屋敷の中を歩く。兄に挨拶をしなければならない。
一番日当たりのいい部屋の樫の扉を開ける。部屋の主は窓の外を見ていた。
「兄貴」
「うん?……あぁ、ヴェス。久方ぶりだ」
車椅子の青年がゆっくりと振り返った。その膝掛けの下の膨らみは片足分だけない。
この隻脚の青年が、シュルヴェステルの兄であり、家督を継いだ継承者。生存している兄弟の中で、一番上にあたる。
「おかえり」
サクリエールの野蛮さなど感じられない穏やかな笑いを浮かべて、次兄はそう言った。
「おう、ただいま」


「それでまた、なんで帰る気になったんだい?」
ブラックプティングを切り分ける妹の手つきを眺めながら、次兄はシュルヴェステルにそう訊ねた。
「理由なんかねぇよ」
たまたま気が向いたから帰っただけだ。最近顔を見ていないからだ。特に何かあったわけでもない。
「それはそうと、兄さん、私のヴァカレンタインチョコ受け取った?」
紅茶を注いだカップを配りながら、彼女はシュルヴェステルに訊ねた。
ヴァカレンタインの、といえばあれだ。彼女の失った眼球を模したチョコレート。
あの一件を思い出して、シュルヴェステルの記憶に苦いものがにじむ。
「おう。美味かったぜ」
見た目はともかく、味は上々だった。見た目はともかく。
「シシリー姉、頑張ってたもんなぁ」
徹夜して、あの虹彩をチョコレートで描いていたのだ。
本物と寸分違わぬそれを見事に作りあげて、得意気な笑みを浮かべていた。
それだけならまだしも、他の兄弟へのチョコレートもきちんと作っていた。こちらは普通のものだが。
「シシリーの料理は上手いからね。シトラも学んでほしいんだけど」
「姉貴にそれは無理だろ」
がさつな姉に料理など無茶だろう。卵ひとつ割るのでさえ大騒ぎになりそうだ。
その雑な姉の背中を反面教師に、妹は器用に育った。
「だから嫁ぎ遅れんだよ。もう三十路だろ」
「まだ29だ、馬鹿弟」
背後から声。次いで、後頭部に衝撃が走った。
「いっ……!!!」
「天誅だ」
シュルヴェステルを殴りつけた姉は、ぱんぱん、と手を払った。
「おかえり、シトラ」
帰ってくるなり弟に拳を振り上げた妹へ、次兄は穏やかに微笑みかけた。
「ただいまぁ、兄貴」
雑な言葉遣いで返す。空いている席に座ると、隻眼の妹がすかさずカップを差し出す。
片方しかない目から物凄い殺気が放たれているが、無視して紅茶をすする。
「あんたらを嫁婿に行かせなきゃ結婚なんざする気ないよ、私は」
次兄はきちんと嫁を迎えている。後継ぎはいずれ生まれるだろう。
そういえば義姉を見ていない。また仕置きと称して監禁されているのだろう。
次兄の穏やかな性情の下に隠れた激情は、時折そういう面を見せる。
いつものことなので慣れてしまった。次兄が許せば顔を見せるだろう。
「シシリー、シベル、あんたらそろそろ相手見つけなよ」
この家は貴族の一端だが、可愛い妹弟に政略結婚などさせたくはない。
そんな権謀術数にまみれた話はすでに次兄が引き受けた。
これ以上、権威を広げる気もないので、妹弟たちには自由恋愛の末に結婚してほしい。
「……あー、うん…気になる子はいるよ、俺」
末の弟は照れたように頭を掻いた。脳裏に浮かべる姿に胸が高鳴る。
「マジかよ。何処のどいつだ」
「そうだ、ほらお姉ちゃんに教えろ」
身を乗り出す兄姉に末の弟は困ったように視線を泳がせる。
結婚の話はおろか、まだ付き合ってすら、告白すらしていない。
気が早すぎる。追及を逃れようと、末の弟は隻眼の姉に話を振ることにした。
「し、シシリー姉はどうなんだよ?」
「あら。私には必要ないわ。兄さんがいればいいんだもの」
即答。わかりきっていたが、この見事な返答である。
「悪ぃな。人生丸ごと抱えあげてやんのは1人で十分だ」
不敵に口端を吊り上げて、シュルヴェステルは指輪を見せる。
乱暴な扱いで傷だらけだが、それは紛れもなく結婚指輪だ。
「そーいや、結婚したなぁ、あんた」
伴侶となったエニリプサの少年を、この兄弟たちは知らない。
家族である兄弟たちに挨拶もなく結ばれた。奔放な弟ではあるが、ここまで奔放だとは。
「あ? 結婚じゃねーよ」
そう、シュルヴェステルのそれは結婚ではない。
恋も愛も越えたそれに、結婚などという甘い言葉は似合わない。
あれがシュルヴェステルのものだという所有の楔を増やしただけだ。
結婚ではない。伴侶ではない。だから紹介も挨拶も必要ない。
「私知ってるわ、その子のこと」
大好きな兄を奪った少年について、彼女はあらゆる手を尽くして調べ上げた。
「シルヴェスタ・アルベルタ。18歳で、生まれはボンタ」
そうして彼女はそらんじる。彼の素性を、経歴を。
過去から現在に至るまでのそれは、シュルヴェステル自身も知らないことまで及んでいた。
「……よく調べたな」
「敵を知るには必要だわ」
敵意をむき出しにして彼女は言った。
エニリプサの少年への敵意と殺意が止まらない。
「私の兄さんを奪ったのよ、あの子は」
ぎり、と彼女は歯噛みする。
「私の、私の兄さんを、あの子が取ったのよ」
そして結婚と言う形で確かなものにしてしまった。
許さない、許せない。殺意と敵意が止まらない。
「刑罰が必要だわ。…えぇ、そうよ。罰を与えなきゃ」
「…おい」
すぅ、と空気が冷えた。ぴりりと空気が凍る。
直後ひらめくシュルヴェステルの腕。中身をぶちまけながらカップが飛んだ。
投げつけられたカップは彼女の顔のぎりぎりを掠めて、壁に当たって砕け散る。
「あいつに手ぇ出したら、てめぇでも殺すぞ、シシリルベル」
シュルヴェステルの殺気に、彼女は口を押えて俯いた。
震える肩。威圧しすぎたか。
「………頭冷やしてくる」
少し時間を置いた方がいい。シュルヴェステルは舌打ちと共に席を立つ。
振り返らずに部屋を出ていくその背中を次兄が視線で追った。
「やれやれ。…シトラ、そっちは頼んだよ」
「あいさぁ」
車椅子の車輪を転がす兄を見送り、彼女は俯いたままの妹を窺った。
「シシリー、大丈夫か?」
「…………ぃ………」
呟かれた小さな言葉が拾えなかった。もう一度、と促す。
「兄さん、格好良すぎぃ…!!」
恍惚とした表情で、うっとりと彼女は笑った。
大好きな兄が感情を自分に向けてくれた。確固とした殺気。
それでいて、彼女の名前を呼んだ。愛称ではなく、きちんとした名前で。
これほどときめくことがあるだろうか。これほど胸高鳴ることがあるだろうか。
湧き上がる震えは歓喜のそれ。恐怖からではない。
「素敵すぎぃ…あぁ、もう、下着ぐしょぐしょ……」
腰が砕けてしまった。上等なドレスの下のそれはもう、着衣として意味をなしていないだろう。
ぬるつく脚の間を気にしながら立ち上がった。
「下着替えてくるわ…あぁ、もう兄さんったらぁ……」
砕けた足腰をひきずり、ふらつきながら出ていく彼女を見送り、末の弟は心中で呟いた。
「シシリー姉、今日も元気にぶっ飛んでるなぁ」


「ヴェス」
「……兄貴」
投げかけられた穏やかな声にシュルヴェステルが振り返った。
ばつの悪そうな顔で謝罪を述べると、次兄は緩く首を振る。気にするなということだろう。
「あれはシシリーが悪いよ。…それより」
上等なカップを投げつけて壊したことも含めて不問にするとして。
「どういう形で心情であれ、結婚おめでとう」
「…怒んねーのかよ」
何をだ、と問い返した。
めでたいことだ。何を咎めることがあろうか。
「お前の奔放さはよくわかってるつもりだよ。それに、叱ったところで効果がない」
昔からそうだ。叱られたその場では反省していても、すぐに覆してしまう。
紹介くらいはしてほしかったが、過ぎたことだ。
今度連れてくるように言いつけておくだけでいいだろう。それも守られるかどうか怪しいが。
「どんな相手でも、私は反対しないよ。お前が選んだ相手だ」
それが例え敵であるボンタの名家の少年としても、だ。
「……器広いな、兄貴」
「それが兄というものさ」
前線で傷も痛みもすべて引き受けるのがサクリエールの役割だ。
その許容心は底深い。どんなものでも受け止める。
弟の奔放な行動も笑って許そう。
「一つだけ言っておくよ」
「なんだよ」
次兄の表情から穏やかな笑みが消えた。
これは真剣な話をするときの顔だ。シュルヴェステルは心構えた。
「一度受け持った傷は癒しきるまで抱え続けろ。途中で捨てるんじゃない」
苦痛を引き受けるサクリエールのまわりには、自然とそういう人間が集まるのだ。
サクリエールの暴力的な愛を求めて依存する。
彼の妻もそうだ。政略結婚のために恋人と別れさせられて嫁がされた。
その悲劇を昇華するために、彼女は自分を憐れむ。
別れさせられた自分は可哀想、嫁がされた自分は可哀想。
そうやって我が身を憐れみ、そして、憐れむために、無理矢理にでも原因を作り出す。
私を悲劇に置いてくれと迫る妻の願いを、次兄は叶えたのだ。
独占欲に理由をつけて、彼女を檻に閉じ込めた。
歪んだ愛だ。しかし、そうしなければ妻の傷は癒せない。
「捨てんなだって?」
次兄の諫言をシュルヴェステルは鼻で笑った。


「あいつは俺のモンだ。捨てるわけねぇだろ」