朝から甘い匂いが漂っていた。
「シャアラ、ボウルひっくり返さないでよ?」
「そんなことするわけないって! わっ!」
「にゃっ!シャアラ危にゃい!」


「…女の子だな」
「……まったくだ」
台所に集まる女子たちを見、シャスールとシアランはそう零した。
既婚男性同士で何かが合うのか、よくこの2人は一緒にいる。その時間の比較にならないくらい、それぞれの伴侶の元にいるのだが。
「エプロン姿の嫁かわいー」
同じく既婚男性のぶるベりんが鼻の下を伸ばして台所を眺めていた。
直後に2人の既婚男性からうちの嫁の方が可愛いと返された。
「クラの女の服ってさ」
あぐらをかいたその膝に自分の肘をついて、シャスールは片目で遠目に妻を眺める。
一回り年上と言うこともあってか、普段彼女は保護者として振る舞う。
今、その仮面がほんの少し外れ、女性としてではなく少女に変わっている。
その変化がシャスールには面白くない。彼女に変化を与えていいのは俺だけなのにな、と心中で呟いた。
「見ての通り丈が短いだろ?」
心を黒い何かで氷結させながら、シャスールは言葉を続ける。
うん、と相槌が聞こえた。
「だからあの上にエプロン着てると」
わざと言葉を区切る。
シャオリーの身に着けているそれは白いシンプルなエプロン。
胸から太腿にかけての前面を覆うそれは、正面から見れば服を完全に隠す。
「裸エプロンみたいで興奮するよな」
直後、包丁が飛んできた。


「まま、なにしてるのー?」
板状のチョコレートを細かく刻んでいたはずの包丁がシャオリーの手から消えている。
チョコレートは刻み終えた後のようなので、なくなっても問題はないのだが、さて、何処に行ったのだろう。
「うん? 大丈夫、あなたは気にしなくていいわ」
にっこりとシャオリーは微笑んだ。
自分で刻んだチョコレートをボウルに入れる。湯煎で溶けていく茶色の欠片。
ほんの少しミルクを入れて、かき混ぜる。
「これをこの型に入れればいいのよね?」
半球状のへこみのある型を指してシャオリーが問う。
「そうそうー。男みんなの分、ちゃんと作ってねー」
今から作るこれは全員に配る義理用だ。
それぞれの想い人用のものは、またあとで。言い換えれば手慣らしである。試作品。サンプル。
「数ばっかり多いんだから……よいしょ」
溶けたチョコレートを型に流し込んで、真ん中をほんの少しくぼませる。
そのくぼみに中身を入れて、二つ貼り合わせると、カプセルボールのような玉ができる。
肝心の中身は女子全員で持ち寄った。ナッツにブランデー、ドライフルーツ。挙句の果てには塩まで。
「なんで塩なの」
「塩チョコってあるでしょう、それよ」
シャルヴィスの質問にあっさりとシャオリーが答えた。
何か違う気がする。そんな気がしたが、シャルヴィスは追及しないことにした。どうせ食べるのは男だ。
「唐揚げ入れちゃえー!」
「やめろおおおお!!!!」
子供特有の無邪気な笑みで、シャロンがとんでもないことを言い出し、おおだぬきが全力で拒否する。
そんな唐揚げを冒涜するような真似はやめてほしい。
「美味しいものと美味しいもの合わせたら、もっと美味しくなるよー」
やめてくださいお願いします。
ひれ伏すからどうかそれだけは、と願うおおだぬきであった。


この季節は誘惑が多くなるから嫌だ。
自他ともに認める甘党のシュルヴェステルは眉をしかめた。
「あんたモテるからいっぱいもらえるしねぇ」
対面に座る姉が苦笑してカップの中身をかき混ぜる。
2人がいるのはブラクマールの一角にあるカフェだ。
男女一組でデザートプレゼントと言うので姉に言ってついてきてもらった。
「さて、私からもやるかね。…まぁ、他の奴らからの分もあるんだけどさ」
ほら、と雑に入れられた紙袋を渡した。姉本人からと、実家にいる家族たちからの分をまとめて入れてある。
貰ったものはその場で開けるのが礼儀だ。そう教わっているシュルヴェステルは礼の一言と同時にひとつの小箱を取った。
まずはこれから開けるとしよう。たまたま手に触れたからという理由で、気取ったピンク色の紙を引き裂いて、箱の蓋を開く。
「……………姉貴宛てじゃねぇか」
シトラ姉と書かれたメッセージカードを認めて、シュルヴェステルが苦い顔をする。
「え? あらまー、間違えたわ」
見た目一緒だからねぇ、と姉が苦笑いを零す。
ごめんと軽い口調で謝って、同じ包装の箱と交換した。
「シシリーも見た目で解るようにしてくれればいいのに」
ボンタとの戦争で片目を失った妹の名前を出す。
そういえば実家に長く帰ってないなとシュルヴェステルはぼんやりと思った。
「姉貴はその場で開けなかったのかよ」
そうすれば中身を間違えて渡すこともなかっただろうに。
少なくとも、渡した本人である妹は中身の区別がついていたはず。
「あん? あぁ、受け取ったの家出る直前だったからね、開けてる暇なかったんだよ」
急ぐあまりに雑にしてしまって、自分の分とまざってしまった。
そう言う姉に、ふぅん、と鼻を鳴らして同じように包装紙を裂く。
小箱を開けると、ヴェス兄貴へと書かれたメッセージカード。
「カード入れるなら外にしとけっての」
リボンにでも挟んでおけば、後で間違われることもなかっただろうに。
そう呟いてカードを退けた。直後、シュルヴェステルは瞠目して硬直する。
「……あの野郎」
そこには眼球を模したチョコレートが鎮座していた。
ヴァカレンタインのきらびやかな雰囲気に似つかわしくない、おそらく手作りの生々しいそれ。
ご丁寧に、失った自分の眼の色と同じ色のチョコレートで虹彩を描いている。
球状のそれから細く伸びるものはおそらく視神経だろう。
姉に宛てたものは普通のものだったのに、どうして俺だけ。シュルヴェステルは表情をひきつらせた。
「おー、シシリーのやつ、いかしたモン作るねぇ」
隻眼の妹のプレゼントを覗き込んで、姉はのんびりとそんなことを言った。
兄が好きすぎて何処か壊れてしまったらしい妹は、たまにこういったことをする。
失った片目は、大好きな兄とまったく同じ色だった。残った目は兄のそれと同じではない。
「ふざけんなよ畜生」
そう言いつつ、可愛らしい包装の中に鎮座するそれを摘みあげる。
冗談じゃないと思いつつきちんと食べるあたり妹思いだねと姉が揶揄した。
「貰ったモン捨てるわけにいかねぇだろ」
食べられるとわかっているものならなおさら。
口に入れたそれを噛み砕くと、中から酒らしい液体が染み出した。ほんのり香るイチゴの味。
イチゴの味と言うことは、この液体は赤いのだろう。血まで模すとは、細工まで無駄に凝っている。
「ん。うめぇ」
見た目はともかく、きちんとチョコレートとして成立している。見た目はともかく。
そういえば妹は料理が上手かった。手先が器用で、彼女が作る包丁細工はとても見事だった。
最近食ってないな、やっぱり近いうちに帰ろう。そうシュルヴェステルは予定を決めた。
「シベルからもあるよ。あとシング兄貴からも」
「なんで男が男に贈るんだよ」
弟と兄の名前にシュルヴェステルが眉根を寄せる。
家族愛と思いたいが、日が日だけに妙な気分だ。
こういう時にかこつけなきゃ日ごろの感謝もできないんだよ、男って不器用だから。そう姉が言い添えた。
「あんた苦い顔してばっかだね。甘いチョコレートの日だってのにさ」
「うるせぇ」


「よし、義理でーきたー」
ふぅ、としずくなみが息を吐いた。
適当に入れた中身。ランダムに包んだチョコレート。もはやどれが何だか、作った彼女たちにも解らない。
「1、2、3…………うん、ちゃんと人数分あるわね」
「じゃ、練習も終わったし、メイン作りましょ!」
何作るの、とシャアラが訊ねた。
ちなみに彼女は姉にチョコレートマフィンを贈る予定だ。失敗しなければ。
「私はトリュフでしてよ」
ここまで長いことチョコレートと触れ合っていると、全身からチョコレートの香りが漂ってきそうだ。
邪魔にならないよう結い上げた髪を背中に流して、シャルロッタが答えた。
「またチョコレート刻まないと……」
ブラウニーを作るらしいシャオリーはすでに手を動かしている。
まな板の上にチョコレートを置いてはたと気付く。包丁はさっき投げて、それでどうしただろう。
「シャス、取ってきて」
「自分で投げておいて……仰せのままに」
当たるぎりぎりのところで床に突き刺さったままの包丁を引き抜いた。
シャオリーの前のまな板の上にそっと置く。誰の胸がまな板だって?
やっぱり角度によっては相当危ない格好だな。そう思ったがまた殴られそうなので黙っておく。
「ありがと」
「どういたしまして」
甘い匂いで胸が焼けそうだ。
女だけの空間に男は似つかわしくない。早々に退散しよう、とシャスールは踵を返す。
その去り際にシャオリーにキスをした。
「完成、楽しみに待ってる」
そう囁いて。不意打ちに驚くシャオリーに背を向けた。
彼女からチョコレートの匂いがする。後で風呂に入れて、匂いを落とさせてから抱こう。
愛しい彼女から俺以外の他の匂いがするなんて我慢ならないからな。独占欲に満ちるシャスールは心中で呟いた。
「ところでさ、一つ聞くけど」
「にゃぁ? ぱぱ、なぁにー?」
「…ここに唐揚げがあるのは何でかな」
まさかそんな。おおだぬきの顔がひきつった。


それから時間が過ぎて。


「……頭いてぇ………」
女の声と甘い匂いで頭痛がひどい。そこに加えて二日酔い。
だめっこ、もとい、たべっこはベッドの中で頭を抱えた。
酒の飲みすぎで昼までどころか夕方まで寝ていた。過眠でさらに頭が痛い。
頭痛に悩まされながらも、とりあえず起き上がることにした。
枕元に放り捨てた煙草に火をつけた。立ちのぼる紫煙に息を吐いた。
「だめっこー」
「たべっこだ」
ノックとともに呼びかけられた言葉に即答する。
「どうした、お嬢ちゃん?」
鍵なら開いてるぜ、と言えば、控えめに開けられる樫の扉。そこからシャアラの顔が遠慮がちに覗いた。
寝起きで身だしなみが整ってないが、まぁいいだろう。たべっこの手招きにシャアラが側に寄った。
煙草とアルコールの臭いがひどい。これで加齢臭がしていたら救いようがないだろう。
「んで、なんだ?」
来たからには用事があるのだろう。
たべっこの問いにシャアラが可愛らしい小袋を差し出す。
「みんなで作ったの」
出したそれは、女子が作ったチョコレートで。
これくらいの年の男性なんて、甘いものは苦手だろう。受け取ってもらえるか心配でシャアラの表情が少し曇る。
「苦手だけどよ、食べないわけねぇだろ。………ありがとな、お嬢ちゃん」
「うんっ」
ぽん、と頭に置かれた武骨な手に、シャアラが満面の笑みを浮かべた。


「うおおおチョコぉぉぉぉ!!!」
「女の子からのチョコぉぉぉぉぉ!!!!」
狂喜する双子。中身の危険性について、彼女たちは一切教えなかったが大丈夫だろうか。
手のひらに簡単に収まってしまうサイズの小袋を大事に掲げて、ばきゅんとアイアンはゾバルのように踊り狂う。
「義理だけでそんな喜ぶなんてね」
耳に響いてうるさい。物理的手段で沈黙させてしまおうか。
シャスールが半目で双子を眺めていた。その膝には風呂に入れたばかりの愛しの妻。
彼女にまとわりついた甘ったるい匂いはどうにか落ちたようだ。
「うるせー!! 女の子のチョコだぞ!」
「そうだぞ! しかも手作りだぞ!!」
その中身の危険性について指摘するべきだろうか。
作る工程を知っているシアランの口にシャルロッタの人差し指が当てられる。黙っていろと言うことらしい。
「……で、義理なんて人情の産物は置いておいて、本命は?」
びしり、と音を立てて双子が固まった。
「俺はシャオリーから貰えてるけど、君たちはどうなのかな?」
なぁ、とぶるべりんに話題を振った。
できたてのクッキーを頬張る紫肌のサクリエールは、寄り添うじゅうじぐを抱き寄せた。
「この通り!」
得意げなぶるべりん、略してドヤべりん。もげろ。
「言うまでもないですわ」
シアランが答える前にシャルロッタが答えた。
自分で作ったトリュフをくわえて上を向けば、諒解したようにキスとともに奪い取られる。
「……とまぁ、こんな感じだけど、君らは?」
リア充爆発しろ。双子の揃った嘆きの声が響いた。


「なんだ? 俺のだけ他と違うじゃねぇか」
装丁が違う包みに、だめっこ、もとい、たべっこは首を傾げた。
彼の持つ小袋の包装紙は渋い色の青。その他はみな同じ淡い赤色だ。
「ん? あぁ、それはね、シャアラが……」
「言わなくていいのっ!!」
言いかけたシャオリーをシャアラが遮る。
どうやら、とびっきりの仕掛けがあるようだ。
「………………ふーん、まぁ、そういうことか」
他と違うということはそういうことだろう。
予想を立てたたべっこは意味ありげに笑って包装を開いた。
「お嬢ちゃんに大人の色気が解るとはなぁ」
にやつきながら、シャアラの目の前でチョコレートを口に入れる。
直後、盛大に噴出した。
「おまっ、馬鹿野郎、なんで茄子の浅漬けが入ってんだ!!」
「よしっ! ピンポイント爆撃成功!!」
この目印のための包装違いだ、ばかめ。


「……先生」
どう思いますかこれ。
自分で呼び出したパンダワスタの前で、おおだぬきが膝を抱えた。
彼女の手には、チョコレートに包まれた唐揚げ。
パンダワスタは困ったように髭をそよがせた。