彼の目覚めはとても早い。刺激に敏感な右目はほんの僅かな明かりさえ拾う。
夜明けと同時に目を覚ましたシャスールは近くのぬくもりを手繰る。
緩く抱き締めるようにしていた妻をしっかりと抱き込んだ。
寝息を立てるシャオリーが遮蔽物になってシャスールの右目が光から逃れる。
まだ起き上がるには早い時間だ。覚醒しかかっている意識を眠りの淵に放り込んだ。


それからほどなくして、シャオリーが目を覚ます。
まず視界に入ってきたのは半裸の上半身だ。柔和な見た目から華奢な印象だが、弓を引くためにその体躯はたくましい。
堂々と晒された胸板を視線で撫で上げて、鎖骨、首へ。シャオリーの目は夫の寝顔を捉えた。
「シャス」
呼びかける。が、反応はない。まったくない。
「起きてるでしょう」
「……………ばれたか」
ぺろり、と舌を出してシャスールが目を開けた。シャオリーを見つめる2色の瞳。
おはよう、とシャスールが口付ければ、おはよう、と挨拶だけが返ってきた。朝のキスは残念ながらないようだ。
「本当に寝ている時なら身じろぎするのよ。それがなかったんだもの。寝た振りだってすぐわかるわ」
「ふむ。覚えておくよ」
寝た振りに磨きがかかるな。呟けば、止めなさい、と小さな企みを咎められた。
それからどちらともなくベッドから起き上がる。シャオリーは手早く床に散らばった下着に脚を通す。
それを眺めるでもなく、シャスールは、昨晩妻が外してサイドボードに置いた眼帯を着けた。
その一瞬、彼女は寂しそうな顔をする。まるで宝物を取り上げられた子供のような表情になるのだ。
本当に、シャオリーはこの目の色を気に入っているのだと毎度実感する。
「また夜に見られるよ」
見る余裕があればの話だが。揺さぶられるシャオリーはよく快感に負けて目を閉じる。
そんなことを考えているシャスールの思考に気付かず、夫の宥めるような言葉にシャオリーは眉を寄せた。
「……そんな物欲しそうな顔してた?」
シャオリーの問いに、うん、とシャスールは頷いた。
「先端だけ入れた時ほどじゃないけど」
昨晩の様子を口にするシャスールに突き刺しロッドが振り下ろされるのは、あと数秒後。


そうして穏やかな1日が終わる。
「シャオリー」
風呂上がりの湯気を漂わせ、シャスールはシャオリーの隣に座って横から抱きついた。
なに、とシャオリーの声が応じる。読んでいた薄い本を閉じて話を聞く体勢を作った。
「明日、何の日か知ってる?」
「あんたの誕生日でしょう」
即答された。きちんと覚えていたらしい。
そう、2の月10日はシャスールの誕生日だ。毎年それを祝いたがるような年齢ではないが、無視されるよりはいい。
「プレゼントなら明日渡すわよ」
それをねだるにはまだ早い。宥めるようにシャスールの濡れた髪を撫でた。
滴る水滴がシャオリーの膝に落ちる。ちゃんと拭けと一喝しておいた。
「シャオリーが拭いて。……プレゼントの話だけどさ、俺の希望言っていい?」
「用意した後で言うんじゃないの。……一応聞くけど、なに?」
シャオリーの手がシャスールの肩からタオルを奪う。鳶色の髪に手を伸ばした。水滴をタオルが吸い取っていく。
「いや……シャオリーが欲しいなって」
シャスールの髪に絡むしなやかな手が止まった。
一瞬の硬直の後、馬鹿、と一蹴された。
「……毎晩あげてるじゃない」
「あ、そっちの意味じゃなくて」
早とちりしたシャオリーの耳が赤く染まる。可愛いな、とシャスールは心中で呟いた。
そっちの意味でもきちんと貰うつもりではいるが、それよりも要求したいことがある。
「たまには優しくして欲しいなってさ」
つまり、デレろと。誕生日くらい、悪態をつくなと要求した。
言われることが嫌なのではない。むしろ征服欲をそそられる。
しかし、悪態を封じられた彼女の様子を見てみたい。
いつもの調子で言いかけて、ふと約束を思い出して口をつぐんで、難しい顔をするのだろう。
その表情が簡単に予想できる。だから苛めたくなるんだよ、とシャスールは心の中で呟いた。
「まぁ、控えて欲しい、くらい。急に全部は無理だろうし」
そう言うが、きっと彼女はすべて封印してしまおうとするのだろう。シャオリーは変なところで真面目だ。
「……努力はするわ」
水分を吸ってすっかり重くなったタオルを手に、シャオリーはその要求を受け入れた。
直後、時計の針が日付変更を告げた。ゼロール製の時計が正確に2の月10日の到来を教える。
「……誕生日おめでとう」
「ありがとう」
珍しく、彼女から口付けられた。


誕生日だからといって何かが変わるわけではない。
祝いにと多少夕飯が豪華になる程度だ。あとはそれぞれからプレゼントを貰うくらいで、それ以外は日常と変わらない。
日課の手慣らしと特技の披露を兼ねて、シャスールは弓を引く。
今日の観客はひとりだ。誕生日くらい1日中夫婦水入らずで、という要求のおかげだ。
「じゃ、いくよ」
そう言ったシャスールは少し離れた位置にある切り株の上に置いた林檎を狙う。
穏和そうな目が獲物を見つけた猛禽のような鋭いものに変わる。
弦を引く。離す。林檎の真ん中に矢が突き刺さった。もちろん貫通している。
「お見事」
クラならこれくらい誰でも簡単にこなせる。シャオリーだってできる。
それを解ってあえてシャオリーは褒めた。
皮肉かと聞けば頷かれた。悪態を封じられたのならこれくらいの意趣返しは許されるだろう。
「本題…俺の本気はこれからだよ」
そう言ってシャスールが取り出したのは一枚の布地。
細長いそれを目隠しにして、両目を覆う。後ろで結べば、完全に閉ざされる視界。
その状態で、シャスールは矢を番えた。少しの軌道修正の後、放たれる矢。
それは見事に林檎を貫く。先程貫通したその場所を正確に、寸分の狂いもなく。
「シャオリー、見てた?」
目隠ししておいても林檎を狙えるくせに、妻の視線は解らないのか。
その言葉を紡ぎかけて、シャオリーは言葉を飲み込んだ。
代わりに、勿論、と答えた。
目を逸らすはずがない。標的を狙うシャスールの横顔に見惚れていたのだから。
「では、見事的中させた狩人に姫君から褒賞をいただきたく」
両目を覆っていた布地を外し、恭しくシャオリーに一礼する。その気障な所作ですら様になる。
「…よくできました」
得意げな表情を浮かべるシャスールの頬に唇を押し当てた。
それだけ、という不満そうな目とぶつかったので、2度目の褒賞は唇へ。
「と、いうことで、林檎をどうぞ」
クラの掟で、貫通した林檎にしかかじりつけない。
切ってしまえばその限りではないのだが、やはり丸かじりがいい。
なので夫の手慣らしの後の林檎を食べるのはシャオリーの役目となっている。
「ありがとう」
シャスールが差し出した林檎に、シャオリーはかじりついた。程よい甘味と酸味が口に広がった。
そのまま丸ごとひとつを食べきる。その間、シャスールは好物に食らいつく妻を眺めていた。
「……ごちそうさま。片付け、任せてもいいかしら?」
「仰せのままに」
芯のぎりぎりまで綺麗に食べきった林檎。シャオリーはそれを空高く上に投げた。
即座にシャスールがそれを射撃する。炎を纏った矢で芯は跡形もなく燃え尽きた。
「褒美は?」
また口付けないといけないだろうか。照れくさいのであまりやりたくないのだが。
照れを押し隠して心の準備をしながら訊ねるシャオリーに彼は首を振る。
「あぁ、取りに行くよ」
「どういう、」
意味、と続けようとしたシャオリーを、シャスールが塞ぐ。
ちゅ、とリップ音がした。ついでに唇を舐め上げられる。
「ごちそうさま」
妻の口周りについた林檎の果汁を舐め取ったシャスールは、してやったりと口端を吊り上げた。


何度もちょっかいを出して、そのたびに悪態をつこうとして思いとどまるシャオリーを眺めた。
そうして日が沈み、夜の帳が降りた。それからだいぶ経つ。
「お風呂、先にもらったわよ」
髪を拭きながら戻ってくるシャオリーに頷いて了解を示す。
適当に頃合いを見て入ってしまおう。さて、いつにしようか。
そんなことを考えながら、シャスールは妻の首にかけてあるタオルを取る。
彼女の背後に回り込んで、金髪に滴る水を拭き取っていく。
シャオリーはされるがままになっている。丁寧に扱われる感覚に身を任せた。
「はい、終わり。あとは自然乾燥で大丈夫かな」
仕上げとばかりにこめかみに口付けた。
ありがとう、と礼を述べるシャオリーに、礼には及びません姫君、と芝居めいて答えた。
「昨日拭いてもらったしな」
そのお返しというわけである。
そうだっけ、とシャオリーは首を傾げた。自然に行った無意識の行動だったので覚えていないのだろう。
「お返しのお返しといっちゃ何だけど、ひとつ頼んでいい?」
「…礼には及ばないんじゃなかったの?」
指摘しつつ、とりあえず用件は聞く。いちいち律儀なところが可愛らしい。
口元を緩ませながら、シャスールは要求を述べた。
「戻ってきたら、俺の眼帯外して」
つまりはそういうことである。甘い時間の予告をして、シャスールは浴室に向かった。


そうして戻ってきたシャスールの眼帯にシャオリーが手を伸ばす。
露になった右目。シャオリーの表情が宝物を見つけたような子供のそれに変わる。
「本当に好きなんだな」
シャスールの呟きに彼女は素直に頷いた。外した眼帯の紐を丸めてベッドのサイドボードの上に置く。
「だって本当に綺麗なんだもの。好きになるに決まってるわ」
「俺のことは?」
一瞬の硬直。ややあって、照れる素振りを見せて頷いた。
「ちゃんと言って」
たまにはきちんと言ってほしい。
そうシャスールが強請れば、困り果てたような顔とぶつかった。
「……もう」
気恥ずかしくてしょうがない。こんなことを自分から言うなんて柄ではない。
けれど言うまで許してはくれないだろう。
誕生日を盾に請われれば、もうどんな理由も通用しなかった。
今日だけだからね、と前置きして、シャオリーは夫の耳元に唇を寄せた。


紡がれた言葉は、日付が変わることを告げる鐘の音で掻き消された。


「…日付、変わっちゃったな」

「今日だけって言って日付が変わったってことは、あと24時間はシャオリーから言ってもらえるってことだよな?」

「いつも俺が言ってるんだ。たまには立場逆転も悪くないだろ?」