それは、時の潮流に攫われた話。


追い詰められる。追い立てられる。
とん、と背中に硬い感触。壁にぶつかったのだと言われずとも察した。
「なんで逃げるんだよ」
それはあなたが追いかけてくるからだ。その言葉は恐怖で固まって紡がれることはない。
「なぁ、あいつと付き合うんだって?」
金髪の下の鳶色の目が真っ直ぐシャルロッタを見据えた。
恐ろしさで身体が硬直する。全身が拒否を訴える。
「あいつなんか止めて、俺にしろよ」
迫る彼は、シャルロッタの顔の横に手をついて逃げ道を完全に断つ。
逃がさない。諦めて受け入れろと強要する。
もう一度、なぁ、と促した。追い詰めた獲物は怯えて震えるだけで答えようとはしない。
いい加減痺れを切らした彼は、強引に行動に出ようとした。
壁についた腕を折る。その分縮まる距離。そのまま口付けてしまおうとした矢先。
「おい、てめぇ女口説いてないで仕事しろ!!」
ただでさえ仕事できないんだから油売ってるんじゃねぇ。
そう彼を叱咤したのは、怖いことで有名な機工師で。
行かなければまずい。舌打ちして彼はシャルロッタから離れた。
「諦めないからな、ロロット」
いまだ恐怖に固まったままの彼女に、そう言い残して。


どうやって帰ったのなんて覚えていない。
日が落ちて暗くなった室内で。シャルロッタは恐怖に震えていた。
ただ恐ろしかった。自分の欲望だけを剥き出しにして執拗に迫るあいつが。
シアラン、と名前を呼んだ。愛しい彼は、仕事で海底にいる。
縋りたくても縋れない。代わりにシアランが贈ったぬいぐるみを抱き締めた。
両手で抱えきれないほど大きなラウル・モップスの人形。ふかふかの毛皮に顔を埋めた。
「シアラン……」
あの鮮やかな橙色の髪を思い浮かべる。姿を、声を。必死に脳内で再生する。
ロロット、と。シアランにだけ許された愛称を呼ぶ声は、あいつの声に重なって上書きされた。
「あなたは出てこないで!!」
反射的にそう叫んだ。
シャルロッタの悲痛な声は誰にも聞かれることなく暗い室内に消えた。
「おーい」
とんとん、と叩かれる扉。びくりと肩が跳ねる。
呑気なその声は間違いなくシャルロッタを恐怖に陥れた彼のもので。
シャルロッタの心に冷たいものが流れ込んだ。恐怖に竦む。
「ロロットぉ、いるんだろー? メシでも食いに行こうぜぇ?」
その愛称を呼ぶなと叫びたい。
彼の口から紡がれるあの単語が恐ろしく、おぞましい。見えない何かに犯されているようだ。
「ロロット」
あの言葉が出てくるたびに、シャルロッタは汚されていく。
見えない凌辱。狂濤のようなそれに削り取られていく精神。
直接犯されていないのに、そうされた気分になる。
「ロロット、なぁ、返事くらいしろって」
震えながら、膝の上のぬいぐるみを強く抱き締めた。
このまま居留守を決めこんでしまおうとしたシャルロッタに、彼はさらに追い打ちをかける。
扉を叩いていた音がだんだん大きくなる。呼ぶ声が徐々に荒々しくなってくる。
ぶち破られる。本能でそう悟った。強引に押し入られる光景が脳裏にひらめいた。
その想像が現実になりかけたその時。
「おい、うるせーぞ!!」
こんな時間に騒ぐなと、隣家から怒鳴られた。
そう言われれは彼は引くしかない。ここで問題を起こすのは得策ではない。
「しょうがねぇ、今日は引いてやるよ。…ロロット、また明日な」
嫌だ、助けて。お願いだから早く帰ってきて。
カレンダーを見て絶望する。シアランが海底から帰ってくるまで、あと3日。


ひたすらに震えながら夜明けを迎えた。
シャルロッタにだって仕事はある。任された機械の整備をしなくてはならない。
しかし船渠に行きたくないと心が訴える。行けば彼と顔を合わせることになる。
拒否感で心をいっぱいにしながら身を竦ませて、ただ時間だけが無情に過ぎていく。
「ロッティ?」
扉を叩いたのは彼女の一番の親友で。
時間になっても船渠に現れないシャルロッタを心配して訪れたのだ。
「ロッティ? ねぇロッティ?」
呼ばれる声にのろのろと身を起こした。
覗き窓から窺った玄関は、親友一人だけがいる。
おぞましい彼はいないと判じたシャルロッタは、ゆっくりと扉を開けた。
「あぁ、よかった、ロッティ」
ちゃんといたじゃない。続きかけた親友の言葉は驚きで止まった。
どうして一晩で、彼女はこんなにも憔悴しているのだ。
「ロッティ、どうしたの?」
シャルロッタの様子に、親友は慌てた。
普段の傲慢さはなりを潜め、脆弱な少女がそこにいる。
開けっぱなしだった扉を閉めて室内に連れて訊ねた。しかし、シャルロッタは首を振るだけで答えようとはしない。
おそらく、何かあったのだろう。友達にも打ち明けられない何かがあったのだと、異常事態を察した。
「おーい」
不意に、扉が叩かれた。跳ねたシャルロッタの肩。
顔から血の気が失せ、見て解るほどに震えだす。
「ロッティは風邪ひいたみたい。喉が腫れて喋れないんだって。悪いけど欠席の連絡しておいて」
看病するから私の分もね、と言い添えたのは、シャルロッタではなく親友だった。
扉の向こうの声が渋々応じた。離れていく気配。
その残滓さえなくなった頃に、親友はシャルロッタに訊ねた。あいつか、と。
縦に振られた首。震える肩から水色の髪が零れ落ちた。
「一緒にいるよ」
彼女の護衛が必要だ。この状態のシャルロッタをひとりにしておくのはまずい。
親友の申し出をシャルロッタは喜んで受け入れた。
本当にいてほしいのは彼女ではないが、いないよりははるかにましだ。
これ以上一人であの恐怖に耐えられる自信はなかった。
「なんか、食べる?」
顔色が悪い。おそらく昨日から何も口にしていないはずだ。
台所に入るよ、と断ってから、薄口のスープを作って渡した。
差し出された椀をシャルロッタは首を振って拒否した。食べられる気がしない。
「食べないともたないよ」
空腹は思考を麻痺させる。麻痺した思考では余計に自分を追い込んでしまう。
そう言って一匙だけ口に入れさせた。その途端、シャルロッタは飛び起きて洗面所に走り去る。
しばらくの水音。無理矢理食べさせるのはまずかったかと親友は自分の判断を呪った。
「ごめん。大丈夫?」
向かった時の俊敏さの反動のように、のろのろと戻ってくるシャルロッタにそう訊ねた。
平気、と弱々しい声が返ってきた。掠れた声は明確な音にならず、口の動きだけになった。
「寝てな」
ベッドに寝かせられた。梳いていない髪がシーツに散らばった。
その横でベッドに腰掛けながら、親友はシャルロッタの様子を窺った。
疲弊しきっている。彼女の身に何があったのだろう。
案じるあまり気になるが、問い詰める気にはならない。
いつもの偉そうな態度は何処に行ったのだろう。輝いていた瞳は深海のように暗い。
ラウル・モップスのぬいぐるみを抱き締めたまま押し黙るシャルロッタ。
「あんた、そうしてるとシアランみたい」
海底にいる彼を揶揄してそう言った。あの仏頂面が現状とよく似ている。
もうちょっと愛想よくしなさいな、と眉間に指を押し当てているのを見たのは、彼が海底に向かう直前だった。
そんなことを思い出しながら、親友は言葉を重ねる。
つとめて明るく、まとわりつく雰囲気を打ち消すように。
「シアラン」
その名前がひどく懐かしい。記憶の中の姿が恋しくて、思わず涙が零れた。
潮が満ちそうなほど泣いて、そのまま気絶するように泣き疲れて眠った。
しかし、夢の中でさえ追い詰められる。ロロット、と呼ぶ声は嫌悪感そのもの。
悪夢から逃げるように跳ね起きて、洗面所に駆け込んだ。
えづく、が、吐くものがない。胃が締め上げられる。それが追い打ちをかける。


短い眠りと、嘔吐を繰り返して夜が過ぎた。親友は黙って側にいた。
いちいち洗面所に駆け込むのは大変だろうからと用意された器に、何度も顔を伏せた。
「仕事、やっぱり無理だよね」
それならば、その旨を伝えに行かなければならない。
その間、どうしてもシャルロッタは一人になる。
置いておくわけにはいかない、が、置いていかなければならない。
「少しの間だけなら大丈夫」
胃酸に灼けた喉でどうにか声を絞り出して、シャルロッタは親友を送り出した。


その判断は仇となる。
ひとりになったことを見計らったかのように訪れるそれ。
「ロロット」
身が竦む。嫌悪感で胸がいっぱいになる。
親友よ早く戻ってきて。それよりも、早く帰ってきてと脳裏に思い描く鮮やかな橙。
震えて祈るシャルロッタの耳に大きな音が響いた。
「出てこいよ、なぁ!!」
怒鳴り声と、ついでに破壊音をひとつ。ひときわ強く叩かれる扉。
近所の誰もが、それぞれ仕事に出てしまっている。この騒ぎを咎める人は誰もいない。
「無視してんじゃねーよ!!」
もう一度、破壊音がした。


日光を浴びるのは5日ぶりだな、と心の中でシアランは呟いた。
「無愛想なくせに、お前はほんと優秀だよなぁ」
愛想と仕事の出来は関係あるのだろうか。
眉間に深い谷を刻んで、その言葉を黙殺した。
「お前が出来る奴でよかったよ。おかげで想定よりずっと早く終わった」
おかげで1週間だった予定を切り上げて戻ることができた。
褒める言葉を受けながら、シアランは船渠を後にする。向かう先は当然決まっている。
もう慣れたスフォキアの道を歩く。あと少しと言うところで、シアランの耳は不穏な音を捉えた。
スフォキアの民家街に響く音。あの方角はシャルロッタの家ではないだろうか。
嫌な予感がして歩を早めた。


その予感は、的中した。
汚い言葉で怒鳴る男の姿が見えた。金の髪に鳶色の目。
割り込んで威圧するだけで追い払えるだろうか。できるだけ穏便に済ませたい。
そう思っていたシアランの思いは、直後に投げ捨てられる。
「答えろよ、ロロット!」
ぷつん、と何処かで何かが切れる音がした。
扉を蹴る彼の肩を掴んで振り返らせて、その顔面を左腕で殴りつけた。


続く音、声。シャルロッタは恐怖で満ちる。
「シアラン……」
早く帰ってきてと願う。震える手でぬいぐるみを抱き締めた。
不意に、汚い言葉と乱暴な音が途切れた。
静寂が訪れる。何があったのだろうか。気になるが玄関には近付きたくない。
興味と恐怖で揺れるシャルロッタの耳に開錠の音が響いた。
控えめに開かれる扉。親友が戻ってきたのだろうか。
連絡のために出ていく彼女に鍵を預けたから恐らくそれだろう。シャルロッタはそう思っていた。


昼前にしてはいやに暗いような室内。その中に小さく丸まる背中。
「ロロット…?」
どうした、と訊ねようとしたシアランの言葉は止まった。
待ちわびた声にシャルロッタは振り返った。焦がれた姿を見た途端、弾かれたように抱きついた。
一瞬見えたシャルロッタの顔はひどく疲弊していた。
必死に抱きつくシャルロッタを抱き返しながら、シアランは先程の乱暴騒ぎについて訊ねる。
しかし、彼女は答えない。親友の問いに答えたときと同じように、固く口を閉ざして力なく首を振る。
答えない、ということはそれなりの事をされたということだ。
何処までやりやがったあの野郎、と心の中で罵って、もう一度、ロロットと呼んだ。
「…ひとりにして悪かった」
不在の間に何かがあった。ひどく許しがたいことが起きたのだろう。
シャルロッタを恐怖に落とし込んだ奴を呪いつつ、それに居合わせられなかった自分を呪う。
その中、慌ただしい足音が近付いてきた。
「ごめんロッティ!! 先輩が離してくれなくて、って、シアラン帰ってきたんじゃん!」
大慌てで戻ってきたのはシャルロッタの親友だ。
欠席連絡をした後、すぐさま戻ってくるつもりが無駄な時間を食わされてしまった。
帰還を急ぐ中、奴が乱暴騒ぎをしていたと話を聞いて、気が気ではなかった。
「気にしてないわ。…水、くれる?」
嘔吐し続けて灼けた喉が痛い。すぐさま親友はグラス一杯の水を用意した。
差し出されたグラスを受け取ったのは、シャルロッタではなくシアランで。
「一晩家の中で勝手やっちゃったし、片付けてくるね」
シャルロッタ自身のことはシアランに任せるとしよう。それが当人にとってもいい。
空気を読んだ親友は、落ち着かせるようにシャルロッタの水色の髪を撫でた。
「うわ、ロッティ髪べたべた」
そういえば、二晩風呂に入っていない。
さっぱりしたいだろうと判じて親友は立ち上がる。向かう先は浴室だ。
「お湯はっておくから、入れるなら入りなよー」
つとめて明るく言った親友の声に了承を示した。
水、とシャルロッタはグラスを見つめる。親友が渡したそれはシアランの手の中だ。
「ちょうだい」
掠れた声でねだると、シアランはおもむろにグラスの中身を煽る。
そのままシャルロッタに口付けた。口移しで流し込む。
いったん口に含んでぬるくなった水がやけにしみた。
飲み込んだのを確認すると、ゆっくりと離れた唇。
口の中に入った苦味と酸味に、シャルロッタが嘔吐したことを察して、シアランがもう一度心の中で奴を罵る。
黒火薬のように爆ぜそうな怒りを奥底に仕舞って、もう一度同じ行為を繰り返した。
「ロロット」
合間に名前を呼んだ。シアランにだけ許された、特別な愛称。
けれど、それはもう汚されてしまった。申し訳なさでシャルロッタに涙がにじむ。
鼓膜にこびりついた声音を振り払うように、シャルロッタは目の前の存在に縋り付いた。
ひどく脆弱な姿を晒す彼女にどう声をかけていいか解らず、シアランは黙るしかない。
行き場をなくしてさ迷ったその視界に入ったのは、床に転がった大きな人形。
彼女の誕生日に贈ったラウル・モップスのぬいぐるみは、妙な位置にくびれがついている。
中身の綿が偏るほど強く縋っていたのだろう。それほどの恐怖があったのだ。
「ロロット」
紡げない言葉の代わりに行動で示すことにした。回した腕でしっかりと抱き直す。
泣き震える背中を撫でた。少しでも彼女が落ち着けるように。
「…シアラン」
様子を窺いながら、顔だけ出してそっと呼びかけたのは彼女の親友。
「あと任せるね。私いない方がいいみたいだし」
口の動きでそれだけを伝える。親友の住む家は近所にある。呼べばすぐに駆けつけられる距離だ。
「家の鍵、このまま預かるね。それと、ふたりの休暇、取っておく」
「…頼む」
「あいよ。任せられた」
シャルロッタの心身が落ち着くまで、ふたりの休暇願を出しておこう。
事情を訊ねられるだろうが、そのあたりはうまく言っておく、と信頼を預かって親友は家を出た。


「あぁ、ちくしょう!」
苛立ちまぎれに彼は近くの木箱を蹴った。
全力で殴られた頬が痛い。口の中に鉄の味がした。
「てめぇ、才能も悪けりゃ態度も悪いのな!」
船渠に詰めていた機工師が彼の悪態を怒鳴る。
「同期のあいつはお前よりずっと仕事できるのによぉ」
溜息交じりに付け足された言葉に苛立ちが止まらない。
あぁ、忌まわしい。殴られた頬もだが、それよりも腹が立つのは彼女を勝ち取ったことだ。
勝ち誇ったつもりでいるのだろうか。見せびらかすように寄り添いあって。
奪ってしまいたい。それが叶わぬのなら滅茶苦茶に壊してやりたい。
「……そうだ」
はた、と彼はあることを思いついた。

そうだ、あの腕を落としてしまおう。

俺を殴ったあの腕を。

俺が好いた女を抱くその腕を。

永遠に無いものにしてしまおう。

――その後の展開は、絶望の海底。