どうしてこうなったんだろう。シルヴェスタは麻痺した思考の中で考えた。
今夜の客と、いつも通りに仕事して、それから。それから。それからの記憶が曖昧だ。
暗転した意識の中で、売れる、という台詞が聞こえた気がする。
売れる。売る。誰を。決まっている。シルヴェスタだ。
人身販売という言葉が脳裏をかすめ、そしてすぐさま諒解した。そういうことかと納得した。
鳥籠を模した檻の中、シルヴェスタはその中でなら自由だ。立つことも座ることもできる。
檻には布がかけられていて外の様子は見えない。見えない、が、声は聞こえる。
どうやら、売る予定だった人間が逃げたらしい。シルヴェスタはその代わりだ。
「逃げなきゃボクはこんなことにならなかったのに」
嘆きの呟きは誰にも聞こえなかった。はぁ、と溜息を吐いて、冷たい床に顔を伏せた。
身体は問題なく動く。すべてのおまじないだって正常に発動できる。
あの鍵に禁句を何度か打ち込めば脱出はできるだろう。しかしそうする気力は無かった。
「ボクの人生もここで終わりかぁ」
誰かに買われて飼い殺されるのだ。薬漬けか、あるいは何らかで。
そうなった未来を予想できる。できるがやはり逃げ出す気力は無い。
言われるがままの茫洋とした人生で培った無気力は、ここでも発揮されている。
シアランの義手に関することは他の誰でもできるだろう。シルヴェスタより習熟したエニリプサは他にいくらでもいる。
檻を脱出する労力を費やしてまで、自分でなければならない理由はない。
自分を卑下しすぎるあまりの矮小な自己評価がシルヴェスタから抵抗の気力を奪っている。
シルヴェスタはそれに気付かない。彼でなければならないことはいくらでもあるというのに。
しかし、無気力なシルヴェスタの心にただ唯一引っ掛かるものがある。
「………ヴェステル…」
ボクはキミの許可なく他人のものになりそうだよ。
俺のものだと言う声を脳裏に思い浮かべて、シルヴェスタは目を閉じた。


シュルヴェステルの家系は、ブラクマールでも有力な名家だ。
「だっりぃ」
貴族社会の付き合いなんざくそくらえ。シュルヴェステルは誰にも聞こえないよう呟いた。
サクリエールの伝統とはいえ半裸はまずい、と着せられた服が邪魔だ。今すぐ脱ぎ捨て去りたい衝動をどうにかこらえた。
「こういうのは兄貴の役目だろ、兄貴はどうしたよ?」
貴族社会の付き合いは、ブラクマールの兵士を引退した兄の役目だ。シュルヴェステルにこんな話が回ってくることはなかったのに。
兄はどうしたのだと隣にいた姉に聞いた。同じく服の裾を邪魔そうにさばく彼女はシュルヴェステルの声に振り返った。
「兄貴は1本しかない足が痛いってんで欠席さぁ。あんた男兄弟で二番目だし、代わりよ、代わり」
会場の雰囲気に似つかわしくない砕けた口調で彼女は答えた。
直後、急に声を潜めた。持っていた扇で口元を覆ってシュルヴェステルに囁きかける。
「この会場の裏でね、人身販売やってるのよ」
特別なゲストにしか開放されない裏のパーティーだという。彼女はそれを摘発して衆目に晒す仕事でここにいる。
ブラクマールの優秀な兵士である彼女は、部下を会場外に待機させつつ機を待つ。
「どうやってそれに潜り込むんだ?」
「あら、簡単よぉ」
つい、と彼女は視線を弟からずらす。何もいないはずの空間。気配がぞろりと動いた。
「成程」
諒解してシュルヴェステルは口端を吊り上げた。インビジで隠れての潜入をスーラムに任せる気だ。
「ってぇわけで、特定するまで貴族ごっこに付き合ってちょーだいな」
血のように真っ赤なドレスの裾を翻した。
彼女のドレスのその下はいつもの服だ。戦闘になれば脱ぎ捨てるつもりでいる。
「フランベルジェ卿、ごきげんよう」
「これはこれはクローニン殿、お久しゅう」
見事な貴族言葉で彼女は会釈する。そのまま黒服の壮年の男性と雑談が始まった。
シュルヴェステルは行き場なく、ただそれを眺めていた。
「しばらくぶりですけれども、そちらはお変わりなく?」
「えぇ、うちの娘2人も元気ですよ」
「あら? 娘さんはお一人では………?」
「死んだと思った長女が生きて帰ってきましてね、いやぁ、古い骨にならなくてよかったですよ」
2人とも冒険者として旅に出ているのでパーティーに連れてこられなかったのが残念だ、と彼は言った。
しかしその話はすぐに自慢話になる。この前モーモー狼を討伐したというのだ。
「まぁ、冒険者? 奇遇ですね、弟もそうなんですよ」
つい、と彼女はシュルヴェステルを見た。これは会話にまざらないといけないようだ。
貴族の言葉遣いなんて知らないが、大丈夫だろうか。考えながら姉の側に寄った。
「これがうちの弟でして、今日たまたま実家に戻ってきたから連れてきた次第で」
「ほほぅ」
詳しく話を聞いてみたいものだ。そう彼は社交辞令を述べた。
「まぁ、それはまた今度でしょうな。…………アーム・スーラム・グラム」
「えぇ、穴の底に目をつけておきますね」
優雅に会釈した。それきり、男性は会場の雑踏に消える。
「最初の血はあのお方だよ」
「は?」
それはどういう意味だ、と聞きかけて気付く。姉の側の隠れた気配に。一瞬見えた薄紫の布。
「………悪いね、感謝する」
見えない気配に彼女はそう言った。手の扇をさりげない仕草で開く。
「………モーモー狼」
扇を閉じた。それが合図だ。彼女と同じ任務に就く彼が会場の真ん中で魂の石を解放する。
飛び出したのはモーモー狼だ。殺意をたぎらせ暴れ回る巨大な体躯。
「衛兵を! 衛兵を呼べ!」
「屋敷の警護で足りるわけないだろう!!」
逃げ惑う人々からそんな叫び声が聞こえる。それも計算通りだ。
会場に突如出現したモンスターのためと言って、彼女の部下が屋敷に入る。その混乱に乗じて人身販売の会場を突き止め、暴く。それが作戦だ。
「姉貴、説明足らねぇよ」
「言わずとも解れ、馬鹿弟」
逃げ惑う人々の流れに逆らって、姉弟は疾走する。
先程、屋敷の主が身を翻したのが見えた。あれを追えば件の会場に着くだろう。
インビジで隠れたスーラムからも耳打ちを受けているので、場所は見失わない。
「モーモー狼はどうすんだ?」
「私の部下なら片付けられるさ」
さらりと信頼を口に乗せた。彼女のドレスはすでに脱ぎ捨てられている。
「それに、宵風がいる」


走るサクリエールの姉弟。それを見送ってシャルヴィスは腰に据えたダガーを抜いた。
「久し振りだね、その名も」
宵風と呼ばれた時代はもう過去のものだ。今のシャルヴィスは一端のスーラムにすぎない。
名前ばかり先行するのも考えものだ。昔日の名声に伴った力量はもうない。
「さて、私も仕事をしようか」
会場で暴れ回るモーモー狼。あれをどうにかするのが彼女の最後の役割だ。
パーティーに集められた貴族連中の避難は済んだ。あとはあのサクリエールの姉弟が目的を達成するだけ。
「おいで、ケダモノ」
シャルヴィスは残虐に笑った。今度の生は宵風ではなく冥土と呼ばれようか。そんなことを考えながら。


どたばたと、急に慌ただしくなった周囲に、シルヴェスタは目を開けた。
「………なに?」
檻にかかっている布のせいで外の様子は解らない。解らないが、尋常ではない雰囲気が読み取れた。
「兵士が入ってくる前に片せ!」
「証拠隠滅しろ!」
火を放て、と声がした。燃やしてしまえと声がした。
「売り物には構うな、どうせ路地裏の汚いガキだ!!」
「ちょ…っ…」
まさか、とシルヴェスタは顔色を変えた。まさかこのまま生きたまま焼かれるのか。
「さすがにそれは勘弁してよ」
無気力に言われるがまま生きてきたとはいえ、さすがにここで死にたくはない。
ようやくシルヴェスタは抵抗を始めた。鍵に禁句を何度か打ち込んだ。あっさりと壊れる錠。
檻にかかっていた布をめくりあげて、するりと脱出した。売り物の逃走には誰も気付かない。
「外って何処だろ」
呟くシルヴェスタの鼻に焦げ臭さが漂う。本当に火を放ったらしい。
早く逃げないと焼死するな、と出口を探して走り出した。


「煙たいな、あの馬鹿、火つけたな」
姉の呟きにシュルヴェステルも頷いた。よほど知られてはまずいことらしい。
モンスターに襲われたどさくさに紛れて、なんてよく考えるものだ。
「モーモー狼が火を出すか、ばーか」
少し知識のある冒険者ならすぐに見破れるだろう偽装にシュルヴェステルは笑った。
「いやぁ、こっちの責任にするんでしょーよ」
モーモー狼は火に弱い。だから討伐するために火を用いることはままある。
それに、この屋敷に入れた兵士の管轄はフランベルジェの家。炎を象徴する家名に則って、家系の誰もが火の技を扱う。
討伐するために仕方なく火を使い、それが燃え移ったとでも言うのだろう。
「自分で火つけておいて、俺らのせいにするのかよ」
「小悪党ってそーゆーモンだよ、覚えときな馬鹿弟」
馬鹿馬鹿うるせぇよ。抗議したかったがシュルヴェステルは口を閉じた。幼少の頃からこの姉に喧嘩で勝った覚えがない。
「証拠隠滅される前にさっさと押さえるよ」
「おう」
いかにもそれらしい扉を蹴り開けた。吹き出す黒煙。熱気がシュルヴェステルを煽った。
「私は屋敷の主を捕るから、あんたは売り物の確保ね」
被害者の供述があれば証拠には十分。それ以外の証拠はすでに掴んである。
「ったく、人使い荒い、っての!」
姉と別れ、シュルヴェステルは煙の中に躍り出た。息苦しいがそれもまたサクリエールの好む苦痛だ。
売買に関わる連中は逃げた後だろうか。入れ違いになってしまったのなら姉は確保に骨が折れるだろうなとぼんやりと考えた。
それよりも考えるべきは、売り物となった被害者の身だ。
あぁいう手合いはどうせこの火に紛れて燃やしてしまうだろう。
さっさと見つけないと危険だ。だいぶ火が回っている。いくら苦痛を好むサクリエールといえど、この中に長時間いるのはまずい。
「誰かいるか、おい!」
立ち込める煙の中に向かってシュルヴェステルは叫んだ。
飛行する剣を呼び出して火の中に放る。生存者がいれば、剣と転置して拾い上げる腹積もりだ。
剣が炎の中をさ迷う。ややあって、何かの気配に進むのを躊躇って止まる。剣が生存者にぶつかったのだ。
「いやがった」
見つけた、とシュルヴェステルはすぐさま剣と転置する。火中に飛び込む代わりに剣は出入口の側へ。
「…ヴェステ、ル……?」
ふらり、と崩れ落ちる小さな体躯。シュルヴェステルが受け止めたそれは間違いなくシルヴェスタで。
「ってめ、んな所で何してんだ」
「しくじってさ……売られかけた…」
馬鹿、と一言なじってシュルヴェステルはシルヴェスタを抱えて再び剣と転置する。剣は炎に飲まれて消えた。
「他に売り物いねぇだろうな?」
防火加工がしてあるらしく、扉付近に火は回っていない。まだしばらくは持ちそうだ。
そこにいったんシルヴェスタを置いて訊ねた。まだ誰かいるならそれも拾わないといけない。
「ボクだけ…だと、思う……」
煙を吸い込んだのか、シルヴェスタに元気はない。かくいうシュルヴェステルも長居は危険だ。
いないと言うのなら、このまま脱出する。最後にもう一度確認してから、シュルヴェステルはシルヴェスタを抱えあげた。
「変なモンに引っかかってんじゃねぇよ」
その声は、意識を手放したシルヴェスタには届いていなかった。


防火加工をしていたのが仇になった。放たれた火はすべてを燃やし尽くす前に消火された。
燃え残った悪趣味丸出しの怪しげな広間を前に、任務を遂行した彼女は屋敷の主を嘲笑った。
「こりゃー言い訳できないね」
「っは、まったくだ」
この様相では、売り物となった少年の供述は必要なさそうだ。
悪趣味の所業は明らか。燃え残ったものの中には、顧客のリストまである。
「姉貴」
ん、と応じる声。彼女はまだ兵士としての仕事がある。
対するシュルヴェステルはブラクマールの兵士ではない。しがない冒険者だ。
パーティーに潜入する姉のエスコートをする兄の代わりを務めただけで、彼女が潜入できた時点で役目は終わっている。
「供述が必要ねぇなら、こいつ連れ帰っていいか?」
シュルヴェステルは眠ったままのシルヴェスタを指した。
「あー、まぁ、いいよ」
後日、詳しい話を聞くかもしれないからそう伝えておけ、と言い添えて帰宅を許可した。
許しが出たので、シュルヴェステルはシルヴェスタを抱えあけて帰路につく。
その横をシャルヴィスがすれ違う。モーモー狼の首を提げた彼女は無言で歩みを進めた。
「おー、宵風、ご苦労様ぁー」
「………その名はもう引退したよ」
そんな会話が聞こえた。


目を開けたシルヴェスタの視界に入ってきたのは、見慣れたシーツ。
「やっと起きたか」
まだぼんやりする意識が、聞き慣れた声で覚醒した。
声の方に目を向ければ、そこにはシュルヴェステルがいて。
「ヴェステル…?」
名前を呼べば応じる声。漠然とした意識に流れ込む記憶。
そうだ、確か自分は、売られかけて、それで。
「変なモンに引っかかってんじゃねぇよ」
暗転する意識の直前に聞こえた言葉がまた紡がれる。
ごめん、とシルヴェスタは謝った。まさかこんな展開になるとは思っていなかったのだ。
そう、普段通りの仕事だと思ったのだ。いつものように身体を売って。
「ったく、手間かけさせんな」
シュルヴェステルの手が乱暴に頭を撫でた。寝乱れた髪がさらに乱れる。
抵抗する気力はない。シルヴェスタが心を許している証拠だ。
「まだ辛ぇだろ、寝とけ。回復しだい姉貴のとこで話聞かせろよ」
うん、と頷いて、シルヴェスタはまた目を閉じた。ややあって聞こえる寝息。
顔色が悪い。精神的な疲れもあるのだろう。そんな状態のシルヴェスタにいつものように接するつもりはない。
シュルヴェステルの乱暴さに付き合えるほど、体力も気力もないだろう。それに、たまには優しくしてやるのも悪くはない。
シルヴェスタの寝顔を見つめ、シュルヴェステルは誰ともなく呟いた。
「………涙の日、か」
そう言えば明日は涙の日だ。サクリエールが女神に血ではなく涙を捧げる日。
「てめぇが泣いてんじゃねぇよ」
マスカット色の瞳を隠した瞼の、目尻に浮かぶ水滴を指で拭った。
寝ながら泣くとは器用なものだ。シュルヴェステルの側にいて、無防備になったからこそ浮かんだ安堵の涙。

「別離なんざ、させねぇよ」

てめぇは俺のモンだろ、といつもの言葉を舌に乗せた。