いつか来る日の夢を見よう。


シャオリー。呼ばれた声に振り返った。
「なに?」
「いや。呼んでみただけ」
なにそれ、とシャオリーが笑った。つられてシャスールも笑う。
和やかで穏やかな時間。お互いを探る警戒はもうすでに無い。
相手の心を埋め尽くし、支配する。そんな領域はいつしか越えてしまった。
「シャオリー」
「…また呼んでみただけ?」
「愛してる」
シャスールが口付けた。発した言葉は本心だ。陥れるための布石ではなく。
愛されたいし愛したいと願ってしまった。裏切りたくても裏切られないほどに。
その表情を絶望ではなく幸せに染めたいと願ってしまった。
いつしかすり替わった目的。計略はかなぐり捨てられ、愛だけが残り芽生えた。
「嫌ね、そんな頻繁に言わないでよ」
連呼したら安っぽくなるわよ。言いつつシャオリーもまた同じ言葉を舌に乗せる。
「価値が下がるんじゃないのかい?」
「私はいいの」
首輪をつけようと思っていた。
這いつくばらせて決定的敗北を与えようと思っていた。
それは頓挫してしまった。上下関係ではない関係を望んでしまった。
いつしかすり替わった目的。計略はかなぐり捨てられ、愛だけが残り芽生えた。
「まま! ぱぱ!」
二人の間にシャロンが飛び込んできた。
血と泥のにおいがする。クロコダイルを狩ってきた帰りなのだろう。
「おかえりシャロン。おやつ用意してあげるわね」
「やったぁ!!」
文字通り飛び上がって喜ぶ娘の頭を撫でて宥めて、シャオリーは台所に消える。
後に残された父と娘。ざわりと身を起こす緊迫感。張りつめる緊張の糸。
「…私は信用しないからね」
シャロンが指している言葉は、シャスールの妻に対する態度だ。
裏切り絶望に叩き落とすためだけに結ばれた。切断するために結んだはずだ。
それが手のひらを返して愛しているとのたまう。
信用できないと毛を逆立てるシャロンに、シャスールは肩を竦める。
「俺だって自分が信じられないんだからな」
彼女の心を浸食しきった確証はあった。あとは切り落とすだけだった。
その最後の一手がどうしても打てなかったのだ。
泣くだろう。絶望するだろう。その表情を想像して、シャスールに浮かんだのは歓喜ではなく心痛だった。
「認められるように尽力するよ。愛してるのは本当だしな」
「どうだか。……ままおかえりー!!!」
ぱっとシャロンの顔に子供らしい笑顔が戻る。
ケーキの乗ったトレイを持つシャオリーに文字通り抱きついた。
「あぁ、もう、そんなしたら落としちゃうでしょ」
「シャオリー」
俺が持つよ、と娘が抱きついて離れないシャオリーからトレイを受け取った。
見れば、トレイに乗っているケーキの数は2。ひとつ足りない。
「あんたの分は無しよ」
本当はきちんと人数分あったのだ。
それをシャアラがいつものごとくドジを踏んでひとつ駄目にしてしまった。
「えぇー…。まぁ、いいけど」
夜に妻を食べるとしよう。性的な意味で。内心で呟いた。
今晩は頑張ろう。すごく。めいっぱい。ケーキより甘い時間を過ごそう。
「嘘。……半分、分けてあげるから、それで我慢して」
シャオリーが差し出したフォークの先。一口分のクリームのかたまり。
「じゃぁ、もらおうかな」
フォークは受け取らずに、その先に乗ったクリームを指で取った。
そこから先は素早かった。シャオリーの唇に乗せて、ぺろりと舐めあげた。
そのまま舌でも入れてやろうとしたシャスールの手の甲をフォークが軽く刺した。
「…痛い」
どうやらお預けのようだ。苦笑して妻を離した。
刺さった手の甲には幸いにも血は出ていない。容赦してくれたようだ。
先端が当たった痕はできてしまったが、それもすぐ消えるだろう。
「っ、盛るんじゃないの」
そう言うシャオリーの耳は赤い。まさかあんなことをするなんて。しかも娘の前で。
熱い夫婦の様子を見て、シャロンはにゃーと行き場なく鳴いた。
「にゃー…邪魔みたいだからロッティんとこ行ってくるー」
シャルロッタのところも邪魔になると思うが。
ケーキの取り皿を持って、シャロンがその場を立った。
「あぁほら、もう…あんたがそんなことするから……」
「やりたくなったんだ。しょうがないだろ」
開き直るシャスールにシャオリーが嘆息した。
堂々としすぎて怒る気にもなれない。
「じゃぁ、私も欲望のままに動くとするわね」
「どうぞ」
シャオリーはいったい何をするだろう。
いくつか予想を立てながらシャスールが手を広げる。何でも受け入れるというように。
「……腕枕、して」
つまり、そういうことだ。
娘の前だから自重したが、触れて欲しいと一瞬思ったのは事実。
その欲に従うとしよう。スイッチを入れた責任を取れと要求した。
「仰せのままに」
恭しく礼を取って、ひょい、とシャオリーを横向きに抱き上げる。いわゆる、姫抱き。
向かう先は寝室。一足早く夜が来そうだ。
みんなで食べる夕飯には間に合わなくなるだろうが、後で二人だけで食べればいい。
「取っていい?」
されるがままのシャオリーは、シャスールの眼帯を指す。
光の刺激に極端に弱いという彼の右目は普段隠してある。
運ばれている先、寝室は日が落ちかけて暗くなりつつあるが、それでも眩しいだろうか。
「いいよ」
許可を出す。本当はまだ少し暗くなってからがいいのだが、妻が見たがっているので我慢するとしよう。
シャスールの深緑の左目も好きだが、右目の紫の色合いを彼女は何よりも好きだと言っていた。
「俺、両手塞がってるから、シャオリーが取って」
連れ込んだ室内は、目を閉ざしきりにしたくなるほどの明るさではない。
少し瞬きの数が多くなるだけだろう。問題はない。
シャオリーの手が後頭部に回る。開放された視界に差し込む刺激。
突き刺すような光に慣らすようにゆっくりと瞬いた。
「眩しいなら戻した方が……」
「大丈夫だって」
それに、とシャスールは続ける。
柔らかいベッドの上にそっと下ろしてその上に乗る。
猛禽のような肉食の目。色の違う両目に宿る欲望で妻を見下ろした。
シャオリーの髪紐を解いて指を入れてシーツに散らばせる。
準備完了。いただきます、と心の中で手を合わせた。
「せっかくのシャオリーの姿、両目で見られないのはもったいないからな」
ばか、という照れ隠しの声は唇で塞いだ。


いつしかそんな日が来ればいい。

「馬鹿だな、来るわけないだろ」

「馬鹿ね、来るわけないでしょう」

その言葉を裏切る日を待つ。