予感がする。それは決して良いものではない。
その予感は昼を越えても夜を迎えてもシアランにつきまとった。
「肉欲に溺れれば忘れるんじゃない?」
今晩は3000カマだよ、そう言うシルヴェスタに眉間のしわを深くした。
「誰が買うか」
肩ほどの高さにあるシルヴェスタの頭を軽く叩いた。ぱし、と気が抜けた音がした。
「いたーい」
半分冗談なのに。悪戯を咎められた子供のようにぺろりと舌を出すシルヴェスタ。
呆れた表情でシアランが見返すと、肩を竦めて手を振った。
「やばそうなら呼んでねー」
来れたら行くから。そう言い残してシルヴェスタは路地裏に消えた。


ぎしりぎしりと軋む。
その痛みが幻だとは到底信じられない。
「い、あ、あ、あ」
それは電流を流した万力で締めあげる感覚に似る。
この場にシャルロッタがいなくてよかった。傷つけるかもしれないからと遠ざけてよかった。
それでも求めてしまう自分を嘲る。直後、激痛に歯を食いしばった。
痛みに白濁する意識の中で呟く。
「ロロット――」
そのまま、暗転する。


過去に遡った夢を見た。
たまたま隣合う船渠に配属されたふたりの機工師。
オレンジ色の髪のスチーマーと、金髪のスチーマー。
年代も近かったせいで、見習いの頃からよく比べられていた。
「無愛想な癖に、お前は仕事できるよなぁ。それに比べてあいつは…」
周りからの声にそんな言葉が増えた。
それからだんだん嫌がらせの数が増えた。犯人はたいてい隣の船渠の彼だった。
やられっぱなしは性に合わない。極めて正当な手段で反撃に出た。
好敵手に似た不思議な関係。やがて、二人は同じ女性を好きになる。
勝ち取ったのはシアランだった。彼女との色鮮やかな日々が続いた。
それはあの日に色を失った。
機構の奥の歯車は赤黒く煌めいて――


片腕と共に奪われたシアランの人生。
1本の腕じゃ何もできないと役目は下ろされ、幻肢痛の痛みに暴れるが故にシャルロッタは面会を禁じられた。
「キミが暴れるとき、たいてい殴るからさ、彼女がここにいたら巻き込まれて怪我をするよ」
だから会わせるわけにはいかない。シルヴェスタが言った。
「でも、彼女は待つってさ」


痛みに覚醒する意識。過去を振り返っていた思惟は現実に引き戻される。
夢から覚めた現実は激痛の悪夢の中だった。
ぎりぎり。ぎりぎり。苛む痛みを発散させるように腕を振った。
振った腕にぶつかって、がしゃん、と何かが壊れた。壊したものを振り返る余裕はシアランにはなかった。
まるで身食いだ。左肩を強く握った。爪が食い込む。
脳裏にひらめく過去の残滓。機械の奥に突っ込んだ腕。狂う歯車に肩。腕を軽く捻った、あの音。
「あ、あ、あ」
濁る視界にちらつく影。金の髪に鳶色の目。隣の船渠の彼。
あの晩、自分の船渠に向かうシアランとすれ違ったとき、彼は笑っていた。
まさか、あいつが。あいつがやったのか。この痛みをもたらしたのか。
殺意にすり替わる痛み。不穏な言葉がシアランの口から漏れた。
「殺してくれる」
灰色の日々だった中にただ鮮やかだった彼への殺意。あいつを探し葬ろう。


その思いはもう風化してしまった。
「じゃぁ、行ってくる」
定期検診に向かうシアランをシャルロッタが見送った。
シルヴェスタのいる病室に足を踏み入れた背中が見えなくなるまで。
「さて、どうしましょうかね」
時間潰しに迷うシャルロッタのそんな言葉を聞きながら扉を閉めた。
「やほー。んじゃ、始めようか」
シルヴェスタの緩い挨拶の後、いつもの検診が始まる。
滞りもなく終わった検診。義手の起動実験に移ろうとしたら、どうやらドップルはみんな使われてしまっているらしい。
「俺も時間潰しに迷うなんてな」
さて愛しい嫁は何処に行っただろう。探してみるのも悪くない。
何となく気分が向いた方向に歩き始めた。
寺院を出て、スフォキアの港を歩く。酒場に差し掛かった。
そこで、足が止まる。酒場の窓から遠目に見えた姿。間違いない。彼だ。
シアランの腕をもぎ取った犯人。風化した殺意がほんの少し身を起こした。
ずいぶん泥酔している。今なら事故と称して海に突き落としても誰にも知られないだろうか。
不穏なことに思考をめぐらせていると、彼はおもむろに立ち上がった。
酒瓶を蹴り倒して、酒場から千鳥足で。その隣に立つ鮮やかな水色。
何故シャルロッタが。シアランは思わず後を追った。二人に察知されない距離を保って。


二人がたどり着いた先は船渠だった。
何か話しているの聞こえたが、内容まではわからなかった。
不意にシャルロッタの手がひらめいた。
シャルロッタに呼び出された海流が天井の錨の鎖を断ち切った。重力に従う錨。
重力と重量で断ち切られる彼の首と胴。
分離した箇所から飛び散る液体は、さっきまで彼が飲んでいた葡萄酒のよう。
手向けのように差し出された彼女の一言。
「首を切られる覚悟はあったのでしょう?」
シャルロッタのその一言だけがやけに鮮明に聞こえた。
回る憎しみの渦潮。躍る波濤のように。
ふたりに知れない位置。柱の影にはシアランがいた。
緑色の目で、彼女の断罪を見ていた。
「ロロット――」
お前が手を汚す必要はなかったというのに。


何事もなかったかのようにシアランは寺院に戻った。
シャルロッタもほどなくして戻る。わずかな別離の寂しさを埋めるように抱き合った。
「寂しがり屋さんですわね」
「…それはロロットだろ」
いつものように他愛ない会話をして。
ややあって、慌ただしくなる寺院内。彼の死体でも見つかったか。
呼ばれてシアランがそちらに向かう。シャルロッタはシルヴェスタと一緒にその場に残った。
連れられた現場は、さっき遠目で見た断罪の跡そのままだった。
錨が綺麗に首と胴を両断している。うまく落としたものだ。
「俺の左腕みたいだな」
あいつも見事に腕を落としてくれた。誰にも聞こえないよう揶揄をして後始末を手伝う。
作業はすぐに終わった。頬に飛び散ってしまった血を拭った。


「いやね、錨の下敷きですって」
「やったのはキミだろ?」
「何の話かしら?」
そんな会話が遠くで聞こえた。


あぁ、お前はよくやったよ。


真実は、浮上することなく水底に沈む。