「じゃぁ、私は外で待ってますわね」
にっこりと微笑んで、検診に向かう夫に手を振った。
シアランはどうしてもシャルロッタに同席を許さない。
理由はうっすら予想できるが、あえてそれを追求する気にはならなかった。
「さてと、どうしましょうかしらね」
検診と、起動テストを兼ねてのドップル戦と。それが終わるまでしばらくの時間がかかる。
寺院にある本は読み尽くしてしまったし、誰かと雑談しようにも、適当な相手は見あたらない。
少し遠出をして、図書館にでも行こうか。あそこならまだ読んでいない本がありそうだ。
そう決めたシャルロッタがそちらに足を向けた。
潮風に吹かれながら湾を歩く。今日は空に雲が多い。雨が降らないといいけど、と誰にともなく呟いた。
昼間から営業している酒場の角を曲がりかけたシャルロッタの耳に、不意に言葉が飛び込んだ。
「お客さん飲み過ぎだって…」
「いいだろ。今日は祝いの日なんだ」
「毎日そう言って飲んでるじゃないですか」
店員の小言も何のその。昼から泥酔するなんてとんでもない輩だ。
パンダワですらきちんとわきまえているのに。シャルロッタが眉を顰める。
開け放しの窓から、その客の顔が見えた。その顔に見覚えがあった。
「あら」
あれは確か、4番ドックの担当をしている機工士ではなかったか。
隣の船渠の担当をしているシアランとたびたび衝突しているのを見たことがある。
ゼロール製の歯車を不正規の不良品と取り替えてシアランを困らせて、後日仕返しをくらっていた。そんな記憶がある。
「懐かしいわね」
あの嫌がらせがなければ、シアランとシャルロッタは出会わなかっただろう。そういう意味では恩人だ。
それを差し引いても知らない仲ではない。
挨拶くらいはしておこうと窓から声をかけた。かけようとした。
久しぶりね。その言葉は発せられないまま固まった。
「だってよぉ、憎いあいつの片腕が無くなって、毎晩苦しんでるとか、もう、祝わなくちゃ損だろ!」
その口振りは、犯行を自白していた。
腕が無くなった。エンジンに巻き取られて。捻り切られた。何故。
安全装置をかけないはずがない。もちろんあの時だってかかっていたはずだ。
だからシアランは迷わず機械の中に手を突っ込めた。
安全装置がかかっていたはずの機械が何故動き出したのか。
それはシャルロッタがずっと抱えていた疑問だ。
「そういう、こと…」
誰かが外したのだ。そして、スイッチを入れた。では誰が。こいつだ。
ざわり、とシャルロッタの内部に不穏なものがざわめいた。
それも一瞬のことで、次の瞬間には凪いだ海面のように穏やかな顔に戻る。
その内部に抱く怒涛の激情をかくして、何もないように。
「あら。久しぶりじゃありませんの」
今見つけたというような感じを装って、シャルロッタは窓越しに彼に話しかけた。
この位置からなら、店員にはシャルロッタの姿は見えない。
酒臭い息を吐き出す彼は、何ら気付かずに挨拶を返した。
「ロッティ、久しぶりだなぁ」
彼の声は酒場の喧噪にかき消されて店員に聞き咎められない。
彼の吐息に混ざる酒臭さに、シャルロッタが眉を顰める。
「まったくもう、昼間から飲むなんて酷いわね。外の空気でも吸ったらどう?」
そう言って、巧妙に呼び出した。
誰も彼女の姿も声も見られていない。まるで、彼が一人でふらりと出たように。


そして、誰もいない船渠でシャルロッタは彼と話す。
「…ねぇ、あれをやったのは、あなた?」
問い詰めたシャルロッタに、彼はあっさりとそれを認めた。
「あぁ。そうさ。…なんだ? バラすのか? クビを切られる覚悟くらいはあるぜ?」
怪我を負わせただけだ。殺してはいないのだから、処罰されるにしてもそう重くはない。
寺院から放逐されるだろうが、そうなれば冒険者として旅に出ればいい。
その程度の認識で、シアランは腕を無くしたのか。シャルロッタの心中に、またいっそう澱が積もった。
「そう。……ねぇ、知ってまして?」
この船渠の天井には、飾りとして碇が吊してある。そしてその真下には、彼がいる。
シャルロッタが手をひらめかせる。冒険者として鍛え上げられた技が牙を剥いた。
呼び出された海流が、天井の碇を吊す鎖を断ち切る。
支えを失った碇は、重力に従い、そして。
「…首を切られる覚悟はあったのでしょう?」
頭と胴が分離した彼に、そう言った。そのまま振り返らずに船渠を出た。


シャルロッタが寺院に戻ると、ちょうどドップルの部屋からシアランが出てくるところだった。
「シアラン!」
呼びかけて、抱きついた。しっかりとした体躯がシャルロッタを抱きしめた。
しばしの別れだったが、寂しさに飢えるには十分の時間だった。
抱きしめ合うふたりを、シルヴェスタがやれやれといった態で見ていた。
人前でいちゃつくなと言ってやりたいが、馬に蹴られたくないので黙っておく。
次の検診の予定をいつ告げようかと困っているシルヴェスタの脇を、慌てた様子で機工士が走っていった。
「なんかあったの?」
適当にひとりを捕まえて訊ねた。シルヴェスタの問いに、機工士は頷いて答えた。
「天井の碇で人が死んでるんだよ!」
あまり褒められた文脈ではないが、何が起きたのか大体は予想がついた。
シルヴェスタの問いに答えた機工士は、身を翻して現場へ走っていった。
「嫌ね。鎖でも切れたのかしら」
怖いわね、とシャッロッタは平然と答えた。その横顔を、シルヴェスタが見つめていた。


遺体の片付けをする手伝いが欲しい、とシアランが現場へと呼び出された。
女性にショッキングな現場を見せるわけにはいかない。そう理由を付けられて、シャルロッタはその場に置いていかれた。
シルヴェスタはシャルロッタとシアランを待つことにした。エニリプサが行ってもやれることはない。
「…やったの、キミでしょ?」
そっと、シルヴェスタが訊ねた。天井の鎖は取り替えたばかりだ。自然に切れることはあり得ない。
それなのに、あぁ言った。鎖が切れたと。犯人でなければ出てこない言葉だろう。
「拙い推理ですわね」
シャルロッタが溜息を吐いた。間違ってはないので訂正はしない。罪は認めよう。
「で、私をどうしますの?」
「別に。何もしないさ」
シルヴェスタも知っていた。シアランの腕を断ち切ったのは誰か。
証拠が出ないように、安全装置を外してスイッチを入れる機構を組んで、遠隔操作で作動させたのは誰か。
「羽振りだけの貧相な男だったしね」
同じ場所に住む仲間が事故に巻き込まれたのに、それに構わず欲を押しつけた。そこで不思議に思っていたのだ。
後で、話のついでにさりげなく聞いてみれば、そうだった。
「天罰でも下ったんじゃないの」
しれっとシルヴェスタが言い放った。
もっと凄惨な愛憎劇を見てきた彼にとって、この程度の事件など何の話でもない。
「えぇ。………そうね。天罰だわ」
愛しい夫は片腕を失った。ならばその犯人には、首を失ってもらうくらいがちょうどいい。
何ら悪びれる必要はない。正当な罰だ。
あの程度の認識で苦しみを負わせたのだから、この程度の認識でいい。
シャルロッタに罪悪感はかけらもない。
ヒトによく似たおぞましい生き物を殺したにすぎない。
ブラクマールのまわりをうろつく鍛冶師を倒した時と同じ。
「…あ、旦那さん帰ってきたよ」
戻ってくるシアランの姿を見つけてシルヴェスタがそちらを指す。
「シアラン!」
シャルロッタが身を翻してそちらに駆け寄った。
迷わず抱きついた。シアランもまた、腕を回す。
「お疲れさま。…早く忘れた方がいいよ」
シャルロッタが行った行為も、シアランが見た光景も。
時間の中に放り込んで、過去に流してしまうのが一番いい。
「じゃ、ボクは帰るね」
次の検診は来月の同じ日だと告げて、シルヴェスタが手を振った。
立ち去るその背中を見送って、シアランは腕の中の妻に訊ねた。
「…何の話をしていたんだ?」
シアランの問いに、別に、と答えた。
「ちょっとした意趣返しの話をしていたの」


真実と事実は、浮上することなく水底に沈む。