「おーい!ミズハー。」

岩の小道を進んでいく。散らばる瓦礫を踏み越えて。地響きに揺れに足を取られながら。
トレジャータウンを目指して。
まだ胸がどきどきしていた。やり遂げたんだ。僕たちは守りきった。世界の平和は保たれた。
再び僕たちは、町で平和に暮らせるんだ。
それがたまらなく嬉しかった。ああ、早くトレジャータウンに帰りたい。無事な町の姿を二人で見て、皆にただいまと言って、ふかふかの藁でゆっくり休んで、平和な日常を再開するんだ。
逸る気持ちが足を速めていたのかもしれない。すぐ後ろにあったはずのミズハの足音が遠ざかる。早くおいでよと、ヒカトはいつもの調子で振り返った。
「あれ?」
いつもの調子で、振り返ったのだ。


「ミズハ…どうしたの?その身体…。」


ふわりと漂う長い青い髪。
俯き、立ち止ったミズハの身体から。
黄色い光の球が溢れていた。泡のように音もなく。空へ向かって。

まるで水中で何かが溶けているような。

ゆっくり、大きく、見開かれた緑の瞳に、
顔を上げたミズハが映った。
「ごめんね…ヒカト。ずっと、話せなくて…。」
…何かを堪えるような、微笑みが。

「―――此処で、お別れみたい。」

「え…?」
不思議な光が舞う空間で。それはとても現実感のない台詞だった。
「お別れって…何?どういうことなの?」
「ルワーレが、言ってたの。歴史を変えると未来のポケモンは消えてしまう。」
消え、る?
そんな話、聞いてない。そう思ったのがありありわかったのだろう。ミズハはもう一度小さくごめんねと呟いた。
「私も、未来のポケモンだから…だから私も、消えるの。」
そう話すミズハはすぐそばに、目の前にいる。
それを実感したくてヒカトはミズハへ歩み寄った。
「え…え?ど、どうして?なんで?」
縋るように、ミズハの手を取った。
「ミズハは、ミズハはここにいるよ?よくわからないよ、消えるなんてある訳ないよ…。」
ミズハの手がびくっと震えた。
激戦で傷まみれなヒカトの手。どんな局面でもぎゅっと繋いで離さなかった手。ミズハは俯きぐっと歯を噛むと…その手を振りほどいた。
「今まで、ほんとうに、ありがとう。」
気持ちを押さえた月並みな言葉。その目元は前髪で見えない。
「私は此処で消えてしまうけど…ヒカトのこと、ずっと忘れないよ。」
「…ちょっと…待ってよ…。」
呆然とした。振りほどかれたことが信じられなくて。見下ろす手が、ぶるぶる震える。

「僕、ミズハがいたからここまで頑張れたんだよ?」
最初に海辺で手を取った、あの日から。
「ミズハがいたから…強くなれたんだよ?」
滝の奥。流砂の中。冷たい未来世界。一人なら絶対に行けなかった。
「いなくなるなんて…嘘だよね?」
一人なら無理だった。一人じゃなかったから。ミズハがいたから。

「…独りになったら、僕は…ッ!」



「…違うよ?」
柔らかな音色。
はっと上げたヒカトの視界は、涙でぼやけきっていた。それがぼろっと瞳から頬へ落ちると、まっすぐヒカトを見つめる黒い目が見えた。
「ヒカトは、弱くない。ヒカトは最初から弱くなんてなかった。一人じゃ無理なんて、そんなの嘘。」
だってあなたは、
思わずミズハは手を伸ばしかけ、びくりと止める。堪えるように自分で自分の手を握った。
あなたは此処まで一緒に来てくれた、私の、最高のパートナーなんだもの。

「だから、ね、ヒカト。」
湧きあがる光が、強くなった。
「生きて、ね。ずっと、ずっと…一人でも、生きてね…。」

わぁっと勢いを増した光の泡に、飛びこむようにしてヒカトは腕を伸ばした。
でも、触れられない。すぐそこに見えてるのに触れられない。どうして。此処にいるのに。こんなに近くに、ミズハがいるのに!
「待って…待って…!行かないでよミズハ、嘘だよ、こんなの嘘だよ…!」
「ヒカト。…今まで、ありがとう。」
一緒にギルドで修業して、一緒に冒険できて、ヒカトに出会えて、本当に、良かった。
湧きあがる言葉も思い出もあまりにも多すぎて、ミズハに言えるのはただ一言だけ。
「本当に…ありがとう。」
「ミズハ…待って…ッ…嘘だ…ッ」
「ありがとう…ごめんね。せっかく、友達になれたのにね…。」

友達、なんて言葉じゃ足りない。
光に溺れながら必死に腕を伸ばす。
ミズハは隣にいて当たり前の人なんだ。
僕の帰るところにはミズハがいる。僕の行くところにはミズハがいる。何を見た記憶にもミズハは映っている。
ミズハ、ミズハ、ミズハ。
お願いだから、どうか、どうか。ミズハが消えたら僕は、


すべてを うしなって しまうんだ。


少年は気づいてしまった。あまりにも遅く気づいてしまった。
"友情"・"相棒"…そんなラベルの奥底にいた感情の本性。



光はもはや暴力的な程に眩しくミズハを包んでいた。
強い光がその髪の色を肌の色を、無理矢理光の色で染め上げていく。
ゆらゆらと漂う青い毛先に光球が絡み…すぅと、見えなくなった。
髪だけじゃない。足先が。スカートの裾が。指先が。…消えて、いく。ヒカトの呼吸が止まり、言葉が絶えて。


「…ヒカト。」

光の洪水で、彼女の声だけが鈴のように。
微笑んだミズハの頬から、一粒だけ色の違う光が落ちた。

「ずっと忘れないよ―――ヒカト。」



足先から頭まで一瞬で。

光に、成った。




光は、もう湧きあがらなかった。
瞳孔を開いた緑の瞳の前で、
其処にある光の泡が。掴むことのできない光の泡が。
ヒカトの指を易々抜けて。
空へ…空へ、浮かんで消えた。

そして、光すらも、無くなった。

……膝が、地に落ちた音が聞こえた。
壊れそうなほど見開いた目に、酷く酷く遠い空が映っていた。








届 か な い



(絶叫すらも、届かない。)

fin.