茂る葉と葉に跳ね返り、音もなく届く『ちょうおんぱ』。
混乱させる為ではなく、遠くに言葉を伝える為のもの。それを読み取ることのできる男は、静かに目をつぶって一言言った。
「…長。敵襲ですよ。」
「………また?」
「思ってもそういうことは言わないものです。」
「だってそうだろうよ実際…ったく、今度はどこだ?岬の猫か?キザキの蜂か?」
「あんまりナメてますとやられますよ、彼らだってそれなりに強いんですから。」
長、と呼ばれた蒼い髪の男はそれでもあくびをやめない。高く結った黒髪の男は慣れているらしく、はぁと重たい溜息をついた。
「ったく、ちったぁ仕事にやる気を持ってください馬鹿蜥蜴。今詳細を聞いてみますから…。」
先程ちょうおんぱを送ってきたフライゴンに連絡を取る。男はちょうおんぱを使えないので『めいそう』を代用するが。
返ってきた返事に、常に冷静なはずの男が唖然とした。
「……は?蜥蜴<ジュプトル>?」




シークレットコード



…おかしい。
飛び交うはっぱカッターを避けながらジュプトルの背に冷たい汗が伝った。
確かに周囲を見渡せば深い色の葉が生い茂り、森独特の湿った土のにおいが満ちている。が。
彼を取り囲んでいるのは見慣れたヘルガーやビークインではなく、フシギソウとウツボットの群だった。
(…此処、何処だ…!?)
明らかに自分が拠点にしているキザキの森ではない。
しかもどうやらレベルの高い土地らしく、一撃一撃が重い。すいとるで回復しようにも相手が草じゃ効果が薄い。オレンの実も復活の種ももう尽きた。
…これは本気でヤバいかも知れない。
なんだってこんなとこ迷い込んだんだ自分の馬鹿!と罵ってももう遅い。じりじり迫る敵軍が一斉に葉を舞わせた。南無三、と目をつむったその時だった。
「前衛、攻撃停止!」
鋭い声が響き渡った。
その声で全員が矛を収め、嘘のようにぴたりと静まる。ただ一人ジュプトルだけが、何が起こったのかわからず凍りついた。
「…少し待ちなさい、確認したいことがある。」
森の奥から現れたのは、影のように黒い印象の男。
黒い髪、隠された左目、静かに見据える真っ赤な右目。
ざっと全身の血の気が引いた。怯えきった表情でジュプトルは男に剣を向ける。
「貴様…ッ!!」
声を聞いた時にまさかとは思ったが、こんなところで見つかってしまうなんて。
男は驚いた様子で瞬いたが、やがてその右目をすぅと細めた。
「ほう…?私に剣を向けるということは、やはり敵には違いないようだな…。」
「待てってグレインー、そうかりかりすんな。まだその"確認"ってのも終わってねーだろ?」
グレインと呼ばれた男の後ろから別の男の声がした。今度はさっきのような鋭さはなく、どこか間延びしたのんきな声。
だがその声が響いた途端、周囲のポケモン達全員が膝をついて頭を下げた。
相対していた赤目の男も例外ではなく。その異様な光景の中から、蒼い髪の男はふらりと現れた。
金色の目を、好奇心にきらきら光らせて。
「お前だろ?不審なジュプトルって。歓迎するぜ、ミステリージャングルへようこそ!」


蒼い髪の男がそう言った瞬間、ジュプトルの待遇はがらりと変わった。
大人しそうな奴から荒そうな奴まで森で会う者全員が会釈をし、さっと道を開けていく。
蒼い髪の男はどうもそういう立場に慣れているらしく、ちっとも気にすることなくジュプトルを引き連れ奥に進んだ。後ろに控えている赤目の男だけが、頭痛を堪えるように重い溜息をついていた。
(…グレイン…って、呼ばれていたよな…さっき…。)
どうしても気になってしまって、赤目の男を盗み見る。
黒髪、と思った髪はどうやら濃い灰色のようだった。服装も全然違うし、髪も長くて自分のように高く結っている。ただし左目には包帯が巻かれていて、こちらから見える目は右目だけ。
きっとただの偶然だろう…とは思うがどうしても身体がこわばってしまう。そのぐらいグレインの雰囲気は似ていた。嫌というほど脳裏に刻まれた、あの男に。
「…さっきから何か?」
「あ、いやその別にっ…。」
「なんだよまた喧嘩か?グレインがそんなにつっかかるなんて珍しいなー。」
蒼い髪の男がくるっと振り返った。そうすると金色の目がこちらを向く。赤目の男程じゃないが、この色も少々どきりとする。
ジュプトル族は大半が金色の目をしている。
…だからこそ、久しく見ていないこの色に胸が痛んだ。
「おし、とーちゃく。特になんもないけどゆっくりしてけよ。」
通されたそこは少し開けた空地のような場所で、他の場所より光の射しやすいところだった。積まれた落ち葉が椅子の役割を果たすらしく、勧められた場所にジュプトルは座った。蒼い髪の男も座る。赤目の男は傍らに立ったままだった。
「改めてよく来たな、客人。俺はジュカイン族のローブ。一応このミステリージャングルで頭張ってる。こっちはサマヨール族のグレインな。」
「…私地での突然の乱闘すまなかった。俺はジュプトルだ。ところでえっと…ミステリージャングルって、どこだ?」
「え、だから此処。」
「そういう意味じゃないと思いますよ長。…お前、地図は持っているか?どこから来た?」
ジュプトルは地図を広げて、普段拠点にしているキザキの森を指さした。
「キザキ…か。此処はミステリージャングルといって、キザキの森のちょうど隣になる。…お前、キザキ出身なのか?」
「いや…キザキ出身ではなくて、ただしばらくそこに身を置いているだけというか…。」
というかまずこの時代の生まれじゃない訳で、とは言えないので茶を濁す。
「…嘘ではなさそうだな。基本、キザキの森にジュプトルは生息しない。」
それ以前の話。この大陸でキモリ・ジュプトル・ジュカインが生息するのは此処、ミステリージャングルだけなのだ。
だからさしものグレインも驚いたのだ。ローブ勢と交戦するジュプトルなんて聞いたことがない。
「つってもこいつ此処出身でもなさそーだしなぁ。ミステリージャングルのジュプトルなら全員把握してるし。」
おもむろにローブはジュプトルの頬を手で包み、まじまじと見つめた。えらく距離が近いのでジュプトルはげきょっとする。
「ていうか…なんつーか…俺に似てる?」
「それは貴方がジュカインだからでしょうが。種族同じでしょう。」
「んーでもなーんか他のジュプトルよりこう…びびっ、とクる気が。そういえばお前にも似てないか?」
「似てません。全然似てません。全くもって似てません。」
「そーかなぁー。そんなことない気がすんなー。…あ、わかった。」
ぽん、とローブは手を打った。ぴっと人さし指を立てて得意げに言う。
「お前あれだろ、俺とグレインの子どもだろ!」
すぱぁあああーーーんっっ、とコンマ数秒でグレインはローブを張り倒した。
「馬っちょっこのっ…死ね!!とにかく死ね今すぐ死にさらせ腐れ蜥蜴!!!」
「あいったー…え?俺なんかまちがった?」
「大間違いだこんの馬っ鹿野郎ッッ!!!ふざけるななんで私がお前とそんなっ…こっ、子どもとか…ッ!!」
「ええー、いいじゃーん。俺とグレインの仲だろー?」
「初対面の人間に激しく勘違いされることをほざくなあああああああああああッッッ!!!!!」
…ぽかーんとすると同時にジュプトルはちょっと安心した。あ、この人まともだ。違う人間だ。うん間違いなく違う人間だ。
「…ド変態ド外道と間違えて本当にすまなかった。」
「何か言ったかッ!?」
「いいえ何も。」
「なー、ジュプトルもそう思うよなー?ほらこいつにお母さんって言ってみー?」
「そのネタひきずるなッ!!大体何故私がお母さんだッ!!」
「えーだってー、俺とお前ならやっぱりお父さんはお・れ・で・しょ?」
ねー?とにぱにぱ笑うローブにはおそらく何の悪意もないのだろう。
次の瞬間ナイトヘッドと影打ちでフルボッコとなった。
「あいたた…ひどいなー、グレインはちょっとツンデレすぎだよなぁー。」
「…永久凍土?」
「それツンドラな。」
とりあえず、とローブはぽむぽむジュプトルの肩を叩いた。
「つまるところお前は敵でもなんでもなく迷子ちゃんだろ?だったら今日はもう日も暮れちまうし泊まっていけよ。明日になったらキザキの森まで送ってやるから。」
「え…い、いいのか?」
「いいっていいってー。」
「長、明日も仕事たくさんあるの覚えてますよね?」
「いいっていいってー。」
…どうも半分はサボる口実なようだった。
「…すまない、ありがとう。とても助かる。」
なんであれ有難いことには変わりない。ジュプトルは素直に礼を言った。
けれどその目は、徐々に赤く暮れていく夕日を虚ろに映していて。
何も言わなかったが、ローブとグレインは、静かに目くばせをした。


とっぷりと日も暮れ、紺色の夜が満ちた頃。
茂みからわきあがる虫の声に交じって、かさかさと小さな足音がした。
「よ。星でも見てんのかー?」
「…!起こしたか?すまない。」
「気にしない気にしない。」
切り株に腰かけていたジュプトルに、ローブはそっと声をかけた。その隣の切り株に自分も腰かける。ここは少しだけ木が少なくて、見上げれば空が見える。
「今日は月がないもんな。星がよく見えるなー。」
あれ何座だったっけなー、と楽しそうに眺めるローブ。その様にジュプトルは小さく笑んだ。
「そうだな。…本当に綺麗だな。」
星座なんて楽しむ余裕もないくらい、その光には心を打たれる。太陽も、月も、星も、全て。
けれどやっぱり夜は、夜で。空から地面に目を落とせば、なじみ深いひやりとした闇。
考えてしまう。思いだしてしまう。色々なもの。色々な、事。
この時代に来ても尚…夜に眠れたことは一度も、無かった。
「…なぁジュプトル、甘いもの好きか?」
突然声をかけられたジュプトルはびっくりした。
「あまい…もの?」
「そ。あまーいおやつ。じゃじゃん、我らがグレイン特製モモンの実のリンゴ蜜漬けー。」
ローブがとりだしたのは飴色に柔らかくなった二つのモモンの実だった。"あまい"というのが何かよくわからないが、とりあえず食べものらしい。
受け取ったジュプトルはおそるおそるかじる。
途端、口に広がった味わいに目を瞠った。
「…美味しい…っ!」
「だろ?俺の大好物なんだー。」
はぐはぐと夢中でジュプトルはかじった。こんなの初めて味わった。リンゴやモモンの実は結構好きな味だと思っていたが、比べ物にならないくらいこの食べ物は美味しい。
「すごいな、"あまいもの"って美味しいな…。」
「なんだそりゃ。初めて食べたみたいだな。」
「ああ、初めて食べた。」
びっくりするローブにも気付かず、ジュプトルは最後まで食べきった。
「ありがとう、物凄く美味しかった。作ったグレインにも礼を言わなきゃな。」
にこっと、笑ってお礼を言ってることにジュプトル本人は気づいちゃいないのだろう。
初めて見たものに感動した子どものような、きらきら光る金色の目。ローブはぱちくりと瞬いて、くすっと笑った。
「…なーんだ、お前笑うこともできるんじゃん。」
「ん?」
「んーん、こっちの話ー。」
どこから来たかも何してるのかも、どう生きてきたのかも知らないけどさ。
ローブはぽむぽむと、茶緑色の頭に手を置いた。
「また遊びに来いよ、ジュプトル。いつでも大歓迎だからさ。」
ゆっくりと、ジュプトルの目が見開く。合わさった目の色は同じ色。
返事をしようにも唇は動かず。首も動かすことはできず。小さく俯いたジュプトルは前髪で目を覆って、そのまま星へと目を戻した。

ずるいとわかっていても、首を横に振ることはできなかった。



「この先がキザキとジャングルの境目だ。あまり人に見つからないように行けよ?こっちから渡ったってバレると何かと面倒だからな。」
「了解した。色々と世話になったな、ローブ。」
「いいっていいってー。」
「…あーあ、これで10件は仕事が溜まりましたねー。」
ぎくりとグレインを振り返るローブ。グレインはじとーっとローブをみやる。そのやりとりが可笑しくてジュプトルはくすっと微笑った。
「…そろそろ行くとするか。じゃあな。」
「あ、ちょっと待て。」
がしっとローブがジュプトルを掴んだ。

「そういやお前、名前なんていうの?」

…ぎくっとジュプトルが目を逸らした。
「…何度も呼んでいただろう。ジュプトルだジュプトル。」
「だめ。それ思いっきり種族名だろが。本名言え本名ー。」
「実際どこに行っても俺はジュプトルと名乗ってるし…。」
「っつーことは要するに偽名ってことだろ。本名は?」
う、と言葉に詰まるジュプトル。じりじりと迫るローブ。
やがて何か思いついたらしくぽんと手を打った。
「あ、そっかわかった。俺がフルネーム名乗ってないからか?」
得心したようにローブはにっと笑い、堂々と名を名乗った。

「俺はローブ・シュテンバーグ。第五の神を護る土地・ミステリージャングルの第十四代頭領だ。」

…今度こそジュプトルはその目を見開いた。
信じられないものを見るように、何度も何度も、大きく瞬いて。
けれどローブは臆することなく、堂々と、授かった名を己として示しており。
それは光を知らない蜥蜴には少々眩しすぎて。観念したジュプトルは…唇を、開いた。


「……リヒルト。苗字は、秘密だ。」


秘密ってなんだよっとローブが抗議するのも聞かず、ジュプトルはキザキの森へと飛び込んで行った。
かさりとも音を立てないまま枝から枝へと飛び伝い、すぐにその姿は見えなくなる。その手際にローブはひゅうと口笛を吹き、グレインは珍しく見惚れていた。
「リヒルト、かー。面白い奴だったなー。」
「…相変わらず変わり者と知りあうことにかけては天才的ですね。」
「やったー褒められた。にしてもちっくしょー、言い逃げだよなあれ。苗字気になる。苗字気になる!」
「はいはい。…私はなんとなくわかった気がしますよ。彼の苗字。」
神とポケモンが同じ地に住まうこの大地。現にこの森には時空を超えられるという神が住まう。
だったらそういうことがあってもいいんじゃないですかね。
グレインは…グレイン・マイヨールは、小さく溜息をついた。


数日後、彼らが灰色の探検家と遭遇するのはまた別の話。


fin.