そいつはいつも大量の安酒を買いにくる。
ちっちゃい背にほっそい手足。抱える酒瓶は両手指以上。
ぼろっぼろに擦り切れた財布から小銭を絞り出し、ひぃふぅと数えて代金を支払う。オレはそいつが紙幣で払うところを見たことがない。
店主の歳いったババァが酒を渡せば、当然のごとくぐらりとふらつく。
そんな様子を見たババァが、眉間に皺よせて何か言うんだ。
答えるそいつはいつも、そいつ特有の笑顔を見せる。
「大丈夫です…私が頑張らなくちゃ、いけないから。」
美人でもない、可愛くもない、曖昧にへらっと笑ったその笑顔が
妙に、イラついた。







「ねぇ。」
赤黒い雲が空を漂う夕暮れ時、ラシルが呼びかけた少女はびくりと赤い耳を揺らした。
「ねぇってば、聞いてんの?」
「…誰…?」
少女はおずおずとふり向く。怯えた黒い瞳が警戒を伝えた。
「このご時世に見ず知らずの他人に個人情報晒すと思う?少しは頭使いなよね。」
「…知らない人と話しちゃダメって…お父さんに言われてる、から…。」
お父さんに言われてるから。
その部分が異様に気に入らなかったラシルは、細めていた目をさらに細めた。
「…お父さん…ねぇ。」
『――またきてるわよあの子。』『ろくでなしの父親が…。』
でかでかと噂話をするご婦人方のおかげで、少女の父親のことは熟知済みだった。
「酒ばっか飲んでるぐうたら親父がそんなに大事?」
今度こそ少女の耳が跳ね上がった。
抱えている酒瓶の袋がぎゅっと握られる。
「アンタ、学校も行かずに毎日父親の使いばっかやってんでしょ?ご飯作ったり洗濯したり、出てった母親の代わりにさ。」
「…ッ!なん、で…。」
「噂されまくりだもん、嫌でも聞こえるよ。」
離婚して出て行った母親。大酒飲みの父親。
残された少女は酒飲みの父親と暮らし、毎日毎日、酒の世話。
母親は少女を捨てたも同然。父親は少女のことを便利な召使いか何かと勘違い。
大人の、エゴに、振り回される少女。
ラシルの黒い瞳に震える少女が映った。
気に入らない。
気に入らない。
「そーいうの、なんていうか知ってる?ネグレクト、育児放棄、未成年略取。てかもう立派な虐待だよねー。」
「ちが…ちがうよ!虐待なんかじゃない!」
「違わないね。どうみてもおかしい。異常。」
いい加減認めろよ、馬鹿。
人が親切にも客観的事実を教えてあげてるのに。
「ほら、わかったらこんな生活とっととやめたら?このままいたってアンタに利益なんて…」
そうラシルが言いかけた時だった。
少女は素早く踵を返し、だっと走り去ったのだった。
「は!?…っちょ、待ちなよ!!」
一拍遅れたラシルが、慌てて少女を追いかける。
うらぶれた路地を少女は走って行った。劣悪な住居がひしめく路地は入り組んでいて、土地勘のないラシルには難解すぎる迷路。
そんな路地を知りつくしたように逃げていく少女が
この最悪な環境を当然として、自分の世界として生きている少女が
気に入らなかった。
とにかく気に入らなかった。
たいして歳も違わないくせに、自分と同じ子どものくせに。
あの笑顔が気に入らなかった。
店主にいつも向ける、あの笑い方が嫌いだった。
大丈夫だの、頑張るだの綺麗事ほざいてるくせに
なんでそんな目をしてるのさ。
全部諦めてしまったような、虚しい目をしてるんだよッ!

がむしゃらに進んで行ったその道は、偶然にも少女の先回りになってて。
息を飲んで足を止めた少女を、逃がすまいとラシルは肩をつかんだ。
「待ちなよッ!!」
ぐっとつかんだ肩は鉄板みたいに細い。折れる、と感じて慌てて力を緩めた。
でも逃げられるのが嫌で、離すことはできない。
「…っとに意味わかんないんだけど、人の話を…」
「私ね、」
意外にも少女は、もう逃げなかった。
「貴方の言ってること…よくわからないの。」
「私、馬鹿だから。学校にも行けてないし、頭、悪いし。だから、だからね、虐待とか変だとか、よく…わかんないよ。」
ひとつ、ひとつ、一生懸命言葉を出しているのが伝わる。
俯いた少女の表情は、見えないまま。
「だけど、ね…私、お父さんのために頑張りたいの。」
そう、決めたの。
少女には重すぎるはずの酒瓶の袋。抱えるその手が、小刻みに震えている。
それでも少女はその手を離さなかった。
まるで母親が子供を守るように…ぎゅっと抱きしめて、離さなかった。
「…意味、わかんない。」
思わず呟いた言葉。
それを皮切りに、ラシルの中から次々と言葉が溢れた。
「意味わかんない、意味わかんないよ。嫌だとか思わない訳?他の家の子供は遊ぶことも勉強することも同じくらい許されてて、ちゃんとそれなりにお金をかけてもらって、毎日愛情受けて育ってんだよ?悩みなんてなんにも持たずに育ってんだよ?」

「理不尽だって、思わない訳!?」

…それは、檻の中から空を見ていたラシルの想い。
親が許してくれたことは、この狭い箱の中で勉強することだけだった。
自分のやりたい事に手を伸ばせば、勉強を理由に怒られる。他の子は怒られていないことを、自分だけが怒られる。
そしてドアの外から聞こえるようになった、父親と母親の大きな怒鳴り声。
耳を塞ぐ夜が何日も続いた。
なんで自分が、なんで自分が、なんで自分だけが、こんなにも。
此処は檻だった。ただ毎日を飼い殺されていく、手厚く閉じ込められた檻だった。
ここから出たい。
自由に、なりたい。
大人のいないところで、自由に。自由に。
そしてラシルは、家を飛び出した。

「…うん。」
うなずくように、少女の耳が上下した。
「思う、よ。」
いいなぁって、思わない訳じゃない。
お母さんにお菓子を買ってもらう小さな子とか、ランドセルを背負ってつつきあっている小学生とか、先生の悪口に花を咲かせる中学生とか。
そんな"普通"を見るとやっぱり胸が苦しくて。
いいなぁって、思うよ。
「でも私は…私のお父さんと、暮らしたいの。」
俯いてた少女は、ゆっくりと顔をあげて
くるりと半回転して、ラシルに向き直る。

「私は、お父さんが好きだよ。」

微笑みながら
言ったのだった。




『ラシル、ハンバーグできたわよー。』
マナーにちょっと厳しい、料理の上手な母親。
『ただいまラシル、起きてたんだなー…はい、お土産。』
あまり家にはいないけれど、時々お土産を手渡す父親
二人がよく喧嘩するようになって
その原因が自分だとわかって
自分の名前の混じったその怒鳴り声を、逃げたい程に聞きたくなかったのは
笑顔の二人が、すきだったから。


夕日を背負った裏路地。ぎゃあぎゃあと数の多い鴉。昼でも薄暗い路地が、尚一層黒を増す。
そこに少女は両足で立って、笑顔を浮かべていた。
美人でもない、可愛くもない笑顔。笑い方もぎこちない。綺麗事でキメたつもり?泣いてるじゃん。カッコ悪い。
でも、と。ラシルは思った。
気に入らなくは、ないかもね。
「…あーそう、勝手にすれば?」
ふいとそっぽを向けば、少女がびくっとしたのがわかった。
「…何。なんでそこでびびるの。さんざん逃げてたくせに。」
「え、あ、その…。」
怯えながらも上目づかいにこちらを伺う、赤みがかった瞳。…あーもう、やっぱこいつ訳わかんない。
「あの…その…。」
「なんなのさ。はっきり言ってよ。」
「…ま、また会えるかな!?」
…眩暈がした。
「知らない人と話すなって言われたとかさっき言ってなかった!?」
「ごっごめんなさいごめんなさい!で、でも私もう貴方のこと知ってるよ…?」
「姿形わかるだけなんて知ったうちに入らないでしょばっかじゃないの!?」
「そ、そうだけど、そうだけど…!」
ぎゅっと自分の手を握って、少女はおずおずと呟いた。
「は、初めて同じくらいの年の子と、話したから…。」
…そんな彼女を横目に、ラシルは大きく溜息をつく。
無視して二、三歩進んだ後、おもむろに振り向いた。
「…ラシル。オレの名前。」
唐突に名乗られて、少女ははっと顔を上げた。
「アンタは?」
「ろっ…ロコ。私、ロコ!」
「ふーん、地味な名前。」
「地味じゃないよ!」
お父さんがつけてくれた名前なの…!と主張するロコにうるさがるジェスチャーを見せるラシル。
「でも、」
ひゅっ。ラシルがなにかロコに放り投げて。
びっくりしたロコは慌ててキャッチした。
「覚えやすいとこだけは、アンタの親に感謝してあげる。」
捨て台詞、飛んできたボトル、ラシルの浮かべる少し馬鹿にしたような笑顔。
その意味がなんとなくわかったロコは、心底嬉しそうに微笑んだ。
…お父さん。私ね、友達ができたよ。

綺麗に透きとおったウォッカの瓶を、大切に抱きしめて。

fin.