『――エト、』
優しく撫でてくれる大きな手から、優しい声が降ってくる。
『いい子だね。いい子で待って、いるんだよ。』
うん!と頷いてその手を見上げた時には
もう部屋には誰もいなかった。
ふかふかベッドにマットとクッション、カラフルな家具、だいすきなぬいぐるみに囲まれた部屋で、
ひとり。


**

「おーい、エトー。」
ヒウンシティの高層ビル屋上。その淵は綾芽の恋人のお気に入りスポットだ。
昇ってくるのもすっかり慣れた綾芽は、今日も恋人の背中に声をかけた。
愛らしい顔立ちが、ぎろっ、とこちらを振り向く。恋人・エトワールは不機嫌に口を開いた。
「…エトって、呼ぶなって言ったじゃん。ばかあやめ。」
「悪い悪い。お前が自分でエトって言うからついなー。」
「駄目ったら駄目!あやめはエトって呼ぶの許してない!」
…おや、いつになく機嫌が悪いぞ。綾芽は困ったように頬をかく。
不機嫌に怒鳴りつけるとエトワールはまたぷいと背を向けてしまった。よく見ると、今日は何かを抱きかかえている。愛用の大砲ではないそれは…ぬいぐるみ?
「狸?」
「ばかあやめ。どう見たらたぬきに見える訳。どう見てもうさぎでしょ。」
「…兎かぁ…?」
そう話しかけながらさりげなく隣に座ることに成功した。エトワールはこっちを見たりはしないが、はねのける様子もない。よし成功。
抱いているぬいぐるみは随分年季の入ったものだった。元はパステルカラーの黄色かクリーム色だったのだろう。それがすっかり汚れて黒と茶色のまだら色だ。毛玉でき放題、糸ほつれ放題のそのぬいぐるみは、エトワールの抱く腕にしっくり合っていた。
「その子、名前あるのか?」
さぞや大事にされてきたんだろう。名前ぐらいありそうだ。
そう思いついて聞いてみただけなんだが、エトワールは丸い目をぽかんと瞠ってみせた。
「…"くま"、だけど。」
「兎じゃなかったのか兎じゃ。なんでそんな驚くの?」
「だってこの子の名前とか、はじめて聞かれた。」
「そーなのか。んーだって、大事にしてそうだからなぁ。きっと長い事友達なんだろ?」
そう言って綾芽は、ぬいぐるみに親しみ込もった目を向ける。
いい歳してぬいぐるみなんて、と言われ続けたエトワールには、初めての出来事だった。

「……うん。くまは、ともだち。」
ぎゅっと、抱きしめる腕に力がこもる。
「いつも、いっしょ。こわい夜も、」
たった一人無音の部屋で、眠りに見放された長い長い長い夜も、
「……いっしょ。」

…胸が絞られるようだった。寂しさを抱きかかえる小さな恋人が、せつなくて。
俺なんかが何か言っても焼け石かもしれないけ、ど。
沈黙から逃げるように、その頭に手を伸ばしてしまった。くしゃくしゃ、撫でる。
「…大丈夫、俺が一緒に居るから、な?」
びく。エトワールの肩が強張った。ひゅっと息を呑んでから、おそるおそる、その手を見上げる。
ん?と微笑んで見つめる綾芽と目が合った。
それだけだけど。たったそれだけ、だけど。
「…あやめ。」
「ん?なんだ?」
「……なんでもない。」
「なんだよ気になるじゃん。」
「うっさいばかあやめばかあやめ。」
そうは言いながら、ぬいぐるみから腕を離し。
ぎゅっと、綾芽に抱きつくのだった。




ぬいぐるみ存症


(ずっと一緒にいてくれるのかなぁとか、思っちゃうじゃん、ばか。)

fin.