足音はしなかった。けれど背後に現れた異質な気配にはすぐ気づく。
奇妙な程に無音で無人の廊下。ファーベルは振り返らないまま、微笑して訊いた。
「…何か御用ですか?」
ファーベルの背後に音もなく現れたのは、ポンチョを纏った幼い少女。
彼女のことはよく知っていた。先日こちらの一個中隊へ襲いかかってきた戦闘集団の長、ユヤン。
壊滅はしなかったものの、かなり手ひどいダメージを負ったのは記憶に新しい。
敵側の人間に背後を取られている。にも関わらず、ファーベルは振り向かず背を晒したまま話を待った。
「ぬしの渡すものがあっての。」
ユヤンは懐から一葉の封書を取りだした。ファーベルが視線だけを流して、それを視認する。
「…それは?」
「大方察しはついてると思うがの。わしらの依頼主とぬしの軍の高官との癒着の証拠文書じゃ。」
「それを何故私に?」
「必要じゃろう?」
目的を見せない返事。じっとファーベルを見据えるユヤンはまったくの無表情だった。
「代償は。」
「要らぬ。」
即答だった。一瞬だけファーベルが眉間を歪める。本当に一瞬で、常人じゃわからぬほどわずかだったが。
…ユヤンから視線を、外す。
1秒後にくるりと振り返った。そこにはいつも通りの穏やかな微笑が貼りついていた。
「…どういうつもりです?」
ただ目だけを、ゆっくりと細めて。
「さっきも言ったろう。ぬしにこれを渡すつもりで来た。それだけじゃ。」
「代償もなくそれを渡すと?」
「そうじゃ。」
「…ふふ、随分優しい方もいたものですね。」
「それも違う。」
あっさり斬り捨てるユヤン。少なからずファーベルは虚を突かれた。
ユヤンは一度目を閉じ、す、と開いた。その大きな瞳にファーベルを映す。
それは深い森の奥にある、緑がかった湖水の色。

「ぬしがこれを得、依頼主と高官を葬るのは必然だからじゃ。」
事もなげにユヤンは言った。ファーベルの胸の内にしかないはずの事を。
「それはぬしが歴史の中で果たす役割のひとつ。じゃから渡す、それだけじゃ。」

…実に突拍子もない言葉だった。
突拍子がなかったが、奇妙な威圧感のせいで笑い飛ばせなかった。
強さや凶悪さといったものはそこにはない。彼女はおそらく強くはない。けれど彼女を包む雰囲気には底知れなさがあった。
例えるなら、巨大な大自然を前にした時のような…あの感覚。
「……。」
ぱしっ、と封書を受け取った。彼にしては珍しく乱暴な所作で。
今は受け取っておき、彼女達の動向を探るべきだ。ファーベルの理性はそう言う。彼の、理性は。
「うむ。」
ユヤンは相変わらず無表情で、ひとつ呟くと踵を返した。用は済んだと言わんばかりに。
…無表情?一つの疑念がファーベルの背筋を冷やす。彼女は表情が無いどころか、先程から何の感情も読みとれ無い。もしかして。感情が、無い?
彼女は。
こいつは何者なのか。
ファーベルに背を向けて、ユヤンは歩き去っていく。歩いているはずなのに、足音は無かった。

「ぬしとはまた会うことになろう。近いうちにの。」
廊下の日なたから日陰に差し掛かる時、ユヤンが流し目を寄越した。
「ぬしは貴重な"柱"じゃ。歴史に果たす役割がまだまだある。その人生は歴史を大きく動かすじゃろう。…ゆめゆめ、全て果たし終えるその時まで、」
一歩踏み出す。日陰へ、踏み入った。


「―――死ぬでないぞ。」

そしてその姿は見えなくなった。まるで暗闇に溶けたかのように。




神の


(…姿が完全に消えた後、封書がぐしゃりと握り潰された。)

fin.