ふわ、ふわ、
ふわり。


静かな、とても静かなところだった。
紺色の空を背景に色とりどりの光がぼんやりと満ちていて、夜に見上げた星空にも似ていたし、いつか遠征で見たきりのみずうみにも似ていた。
私はその中を、ふわり、ふわり、風船のように上へ行く。
身体の感覚はなにもない。ふわふわ、ふわふわ、空気になったみたい。
ずっとずっと上に行ったら、何があるんだろう。
何もないのかな。
光も。
私も。
それが、消えるってことなのかな。
「…いや。お前はここで通行止めだ。」
飛び込んできた声に、もやがかっていた意識がはっと目覚めた。
途端にふわふわした感覚はなくなって、私は光る霧でできたような奇妙な地面に足を着いた。久々に感じた重力が慣れなくてくらりと身体が傾いだけれど、それどころじゃなかった。
足に力を込めて、声のした方を見る。
そこには、永遠に忘れないであろう人がいた。
「…ジュプ…トル。」
「…また会えたみたいだな、ミズハ。」
もう一度聴こえた灰甘い低めの声が、耳から染み渡った。
全身の神経をびりりと、揺らす。ねぇ、これは、幻?
「まずは礼を言わせてくれ。お前のおかげであの暗い未来は変えられた。…本当に、ありがとうな。」
ジュプトルの話す声が少し、印象と違うのに気がついた。地上にいた時の彼を包んでいた険というか、陰のようなものが、その声からは取り払われている。
優しいというより甘い、どこにでもいそうなお人好しの青年。…きっとこれは、本来の彼。
「…でも、だから私達は…消えてしまった。」
「…お前のせいじゃない。これは"俺達"が決めた結果だ。」
その"俺達"に私は入ってないのだろう。少しだけ胸が痛んだ。
でも。ふわり、さっき感じた安楽がもう一度胸に広がる。
私は、消える。ジュプトルも、消える。
そのたった一つの共通項が、唯一の、拠り所。
「けれど、」
ジュプトルが微笑む。

「お前は、消えない。」

…音のない世界に、更に無音が満ちた気がして。
私は彼が紡いだ言葉を、恐る恐る、反芻した。
「…消え、ない?」
「そう。お前は世界から、消えない。」
…どういうこと?まずは理性が問いかけた。
未来に住まうポケモンは、未来と共に消えてゆく、のに。
「あまり奇跡とやらは信じないタチなんだが…どうやらこれはそういう類の話らしい。ディアルガが、お前の魂を地上に還すことに決めたそうだ。」
ゆるく頭を動かせば、茶緑のポニーテールがゆらりと揺れる。
それが、妙に、スローモーションに見えた。
「…俺はそれを伝えるように、ディアルガに頼まれたんだ。」


彼は
気づいているだろうか。
今、彼が浮かべているその微笑に。
とてもやわらかくて
此処に浮かぶ光のどれよりも
綺麗な光を灯したその微笑に。

それは優しいというより甘い、どこにでもいそうなお人好しの青年の、
心から祝福する、笑顔だった。
私が地上に戻れることを、私の"幸せ"であろう事柄を、自分には得られない"幸せ"である事柄を
心から祝福する
笑顔、だった。




…何も、言える訳がない。
空気を無くした口を凍らせたまま、胸で暴れるそれを私は必死で抑えつけた。
「さて…あまり時間もない。」
ジュプトルは右手を身体の前に伸ばして、慣れない様子で指を動かした。すると私の背後に、青緑色をした魔方陣のようなものが現れた。
きっとディアルガから今だけ預かってきた力なのだろう。すると、これは。
私を地上に還すための、ワープホール。
「そこから地上に帰れる。…光溢れる世界を、もう一度その目で見て来るといい。」
「…ジュプ、トル…。」
穏やかな彼の微笑みが、今の私には突きつけられたナイフのようで。
言ってはいけない、言ってはいけないと思いながらも。脳裏にレティやルワーレの顔がよぎったけれど、ついに私は口に出してしまった。

「…一緒に、帰ろう…!!」

…ジュプトルは少しだけ目を瞠った。そして仕様のない子供を見るように、苦く微笑して。
「…悪い、な。」
予想通りの答えをくれた。
「俺は、行けない。…行けるのはお前だけなんだ、ミズハ。」
「…ッ…。」
「…お前が帰れるだけでも、奇跡なんだ。」
どうして。どうして私だけ。
そんな奇跡ならいらない。そんな特別はいらない!
想いのままに口にだしてしまいそうだったけど、そんな我儘は虚しいだけだった。
だってそれは目の前の彼を、ただ困らせてしまうだけ。
「…行くんだ、ミズハ。お前には、壊れる程に嘆き悲しむ人がいる。」
陰りを帯びた金の目に言われて、私ははっと目を瞠る。
…そうだ、ヒカト。地上には、ヒカトが。
脳裏に鮮やかに蘇った橙色。それに気をとられたほんの、一瞬。

スキができた。

気づいた時には

とんと軽い音を立てて、私の肩が押されていた。



揺らぐ身体。
傾いでいく身体。
揺れる視界。
回る、視界。
これが本当に最後で最後で最期。
奇跡と呼ぶならむしろ、この一瞬。
その茶緑が、その赤が、その金色が、烙印のように脳裏に焼きついた。

「―――お前"達"に逢えて…幸せだった。」

ありがとう。
そう言った彼はもう…見えなくなっていた。








鮮やかな光に呑み込まれていく彼女を見送って
寂莫のような、違うような、そんな心地に浸っていたジュプトルに

『―――逢えて幸せだなんて、よく言えたものね。』
一つの"声"が、届いた。
『私さえ居なければ幸せだった、の間違いでしょう?』

その声。その、口調。
まさか、と目を瞠ってあたりを見回すも誰もいない。だけど声だけは響く。
そんなことをしているとまた"馬鹿"とでも言われそうな気がして。あぁ、こんな予測すら一体どれだけぶりだろう。
嬉しさと苦笑をないまぜに、ジュプトルは声に耳を浸した。
「…お前、まだアレを自分のせいだと思ってたのか。違うって何度も言っただろ。」
『貴方がどう感じていようと事実は変わらない。何度も言ったはずよ。』
「あぁ、言ったな。懐かしすぎて忘れていたよ。」
『…前より馬鹿っぽく笑うようになったわね。』
「駄目か?」
『…別に。』

『…良かったわね、と言っておいてあげるわ。』

そう言われたジュプトルは
穏やかに目をつぶって、髪を揺らした。
「…ああ。」
なんて、幸せ者なんだろう自分は。
ただ消えていくだけとばかり思っていたのに、ミズハにもう一度会うことができて。
そして、今。
"もう一人"とまで、再会できている。


きぃん、と何か音がした。
音がしたのは自分の足元。そこだけ光が、妙に強くなっている。
青緑色の、さっき出したワープホールと同じ色の光。球体をしたその光は数を増し、光を増し、徐々に自分を包みこんでいく。
終わりの、色。
何度も覚悟した瞬間がついに来た。

だけれど、想像していたよりもずっと温かいのは
一人じゃないから、なのだろう。
ジュプトルは
"リヒルト"は
彼女へと、最後に言葉をかけた。




星海うみ


「…また会おう、な。相棒<パートナー>。」

fin.



***

空探発売前の産物でした。