…すっかり遅くなっちゃったな…。)

ちょっと文献を調べるつもりが、いつのまにか閉館時間。司書の人に注意されてしまったリヒルトはそそくさと図書棟を後にした。
外に出てみると驚いたことに土砂降りだった。時折白い光があたりを照らす。雷だ。うわぁ今日こんな予報でてたっけ。
べっこりと気分が沈んだ。もっと早く帰ってりゃよかった…仕方なくリヒルトは折りたたみ傘を開く。
ジーンズの裾を濡らしながら歩いていると、駐車場で背の高い人陰が目に入った。
(…あれ、先生…?)
ちょっと遠くてわからなかったけど、確かにルワーレだ。何故かその足はぴたりと止まったまま動こうとしない。
あんなとこで何やってんだろ。濡れちゃうぞ。お節介かもとは思いつつリヒルトはルワーレに近寄ってみた。
「…先生?何やってるんですか?」
呼びかけると、びくっ、と肩が揺れた。ぎこちない動きで目線がこちらを向く。少し時間がかかったが、見慣れたゼミ生だと認識できたらしい。細い安堵の息が漏れた。
「あ…リヒルト、でしたか。こんにちは。」
「こんにちは、というか何してるんですか先生。風邪ひいちゃいますよ?」
実際もうその肩や髪は雨を浴びている。寒そうだ。
言われて気づいたのかルワーレの肩が震え始める。少々苦い微笑が零れた。
「…それもそうですね。早く帰りませんと。リヒルトも随分遅い帰宅ですね。」
「ちょっと文献調べる…だけのつもりだったんですけどね。」
「ふふ、リヒルトらしい。そちらこそ睡眠不足で体調崩さないでくださいよ?」
本を読んだらなかなか寝ないタイプでしょう?と図星をさされぎくっとする。けれどその物言いに少し安心した。よかった。いつもの先生だ。
それじゃあ、また明日。そう言ってアパートに帰ろうとしたところだった。

空は純白に光り、同時に低い破裂音が響いた。

また雷。しかも結構近くなってる。傘さしてて大丈夫だろうか。
「…天気ひどいですね、明日は晴れるといいけ…」
ど、という最後の音が出なかった。解けかけていたはずのルワーレの表情は今、明らかに恐怖で凍りついていたから。
どん。どん。容赦なく雷は荒々しい音で空を裂く。その度にびくんと、雨に濡れた白衣の肩が震える。震えているのはきっと、寒いからではなくて。かたかたがたがた、その震えは止まらない。
もうリヒルトなど見えていない、見開かれた赤い目を
思わずリヒルトは見つめてしまった。何を、視て、いるのだろう。



『―――あぁもう嫌だどうしていい子にできないの、私もう疲れたのに…!アンタのせいでどれだけ苦労してると思ってるの!?』

そんな日は決まって荒れた天気で。
雨が降る、風が吹く、雷が、光る。
傘も持てないまま追い出された子どもが、寒さなどしのげるはずもなかった。
できるのは待つことだけ。彼女のヒステリーが収まるその時まで。もっと小さい時は泣いて許しを乞うた事もあったけど、それはもう無駄だと知ってる。

ごめんなさい、と。無意識に呟いていた。主語は相変わらずないけれど。
僕は『母様』という名称を知っているだけで彼女の名前を知らないし、他の人間も知らない、から。
雷が鳴る。その音はヒステリックな怒鳴り声をも凌駕する。怖い。怖い。怖い。
ごめんなさいごめんなさい。何回呟いても空は怒りを収めてはくれない。
居なくなれ、と言ってるのだろうか。
ごめんなさい、ごめんなさい。怖い、怖い。ねぇ誰か、誰か。
誰にも触れたことのない右手を伸ばす。
ねぇ誰か、誰か、誰か。



冷え切った右の手に、人の手が触れた。


「…え?」
突然すぎて傘を落としてしまった。ダッシュで引っ張るその力は存外に強い。
つられて走ったその先は学食だった。もう閉まっている時間だけど、ポーチに入ったおかげで雨はしのげた。
「あー、やっぱり閉まってるかー…でも雨宿りくらいはできるかな。」
はー、と溜息をついたリヒルトはルワーレに目をやる。そっとその手をとった。
「…手、めちゃくちゃ冷たいじゃないですか。一体どのくらいあそこにいたんですか?」
「え…いや、あの…。」
その時また、どんっと雷の音が響いた。ひっとルワーレは思わず息を呑む。
今更ながらリヒルトの前だと気づいたけれどもう遅い。リヒルトは既に驚きを見せなくなっていて。
おもむろに両手で、ルワーレの耳を覆った。
「…こうすれば少しは、聴こえなくなったりしないかな…。」
にしても先生背ぇ高い、と文句を言われたので思わず座る。それでよし、と言わんばかりにリヒルトも座った。耳はまだ、その手に覆われたままだ。
「苦手だったんですね、雷。」
「…バレましたか。」
「隠してるつもりだったんですか?」
リヒルトは吹き出した。彼が笑うと、こちらも和むから不思議だ。
「…リヒルト、帰らなくていいんですか?」
「まだ雨降ってますから。」
「天気予報では今夜いっぱい雨ですよ。」
「え、それは困ったな。んー…それじゃあ、」
にこり。リヒルトは微笑む。

「せめて、雷が終わるまで。」

こちらもびしょぬれだが、リヒルトも結構な濡れ鼠だった。覆っている手もしっかり雨を浴びていて、正直冷たい。
冷たいけど、寒くは、ない。
「…リヒルト。」
聞こえないように呟いたつもりだったけど聞こえたようだ。
「なんですか?」
「…ふふ、いいえ。」



の 嵐


(呼んでみたかっただけですよ。そう言ったら彼は笑うかな。)

fin.