冬の夜は明けるのが遅い。
氷のように冷たい廊下を、なんとか音を立てずに通り抜ける。ニホンの家はなんで靴脱がなきゃいけないんだちきしょう…冷たさで涙目になりながら、玄関に着いたラグナはブーツを履いた。
からから、スライドで開く不思議なドア。触れた外気は廊下なんかの比じゃなかった。思わず一瞬で鳥肌が立つ。
身震いしながら空を見上げると、真っ黒い空がラグナを迎えた。きんと張り詰める冷たい空気。黒いけどなんだか透明で澄んでいる気がした。
あれに似てるな。ほんの数時間前の記憶を手繰る。
蘭斗の猪口の中の透き通った日本酒。それを引き金にぱらぱらぱらぱら、蘇る、一夜の記憶。
「…おい。」
ぎくっ。背中からかけられた声。ラグナの肩が大きく跳ねた。
おそるおそる振り返ると、すぐ後ろに蘭斗が腕を組んで立っている。
「挨拶もナシで帰ろうってか?」
眉間の皺とへの字口が不機嫌さを物語っていた。
「た、大将起きてたのかよ…。」
「ナめんな。音と気配で起きるっつの。お前気配殺し慣れてねーだろ。」
「う゛。」
返す言葉もない。弱ったラグナは頭を掻きながら目を泳がせた。丁度思い返していた記憶がますます気まずくさせる。
ぱらぱらぱらぱら。頭の中に散らばる記憶。
酔いに任せて重ねた唇のその先。青い着物を解いた、その先の。
まるでそれが見えたかのように蘭斗が目を細め、眉間の皺を濃くした。自分の首元をぐいとはだけさせると、とんとん、指で指した。
「…こいつの落とし前、つけずに帰ろうったってそうはいかねぇぞ。」
そこにはよく目立つ赤が、ひとつ。
それはてきめんにラグナを撃ち抜き動けなくさせた。への字口はますますへの字に。あえて不機嫌さを押しだしているが、頬の赤みは隠せなくて。
一歩半の距離を挟んで、漂う気まずい沈黙。
1秒が永遠に思えるほど長い。耐えかねたラグナが渋々口を開いた。
「…その、なんだ、」
「遊びか?」
「へ?」
随分鋭い切り返しにラグナはきょとんとする。
蘭斗は唇を引き結ぶと、泳いでた赤い目をすっとラグナに合わせた。
「まどろっこしいのは苦手なんだよ。酒のノリでやっちまった遊びならそれでもいい。一発殴って忘れてやる。」
「うげ…痛そうだなそれ。」
「そりゃあな。」
蘭斗の視線はまっすぐラグナを見据え、ごまかしを見逃してくれそうにはない。
ま、そうだよな…がりがりとラグナは頭を掻いた。俺だって自分がよもや男に手を出したなんて信じられない。酔った勢いで血迷った、というのは一番丁度よさそうな答えだ。それなら色々とメンツも崩れず済みそうだし。
丁度よさそう、なのだが。ぱらぱら、ぱらぱら、蘇る記憶。
記憶の中の赤い目と目の前の赤い目。重なった瞬間、ざわり、とした。

ああ。こりゃダメだな。
ラグナはこの感覚をよく、よく、知っている。

それはまるで飢えたように。喉が渇くように。
手を伸ばしわし掴みたくなるこの感覚は。


「…そうじゃねぇ答えってのは、アリ?」
不意に見つめ返してきたラグナに、逆に蘭斗が動揺した。
「そうじゃない…って…?」
二人の間の一歩半の距離。そこにラグナは迷わず踏みこみ。
かたん。引き戸に手をつく音と同時に、呼吸と鼓動が奪われた。
酔いの微塵もない冷えた唇。至近距離で開いた瞳はきんと冴えている。
それを肉食獣みたいに細めて、ラグナは離した唇を耳に寄せた。

「―――…ってのは、アリかって聞いてんの。」

瞠る赤い目。
なんで、って気持ちをいっぱいに込めて見上げれば、橙とばっちり合う。
「まどろっこしいのは俺も苦手でよ、」
にぃやり。これまで見たどれとも、違う笑み。
「キちまった。そんだけだ。…あとは大将の返事待ち、ってこった。」

んじゃな、と手を振って去っていく背中。
ひどくゆっくり去っていくのに、見えなくなるまで蘭斗は動けなかった。引き戸に背をつけたまま。
心臓に置き去られた爆弾に途方にくれながら。


『シラフでもアンタが欲しい…ってのは、アリかって聞いてんの。』
てっきり遊びだろうとタカくくってた。
タカくくってた。のに。






Genuine Desire


(返事待ちだなんて、どの口が。)

fin.