最初は手首だった。
次は腕。
次は首。

得られるのはほんのわずかで余興のような痛み。

痺れるような一瞬の後、いつも焦れるような溜息がこぼれた。
嗚呼、
足りない。





沈み込むような冷たい空気が、少し軽いものに変わった。
驚いて見上げてみると、そこには地面と空が見える。
後ろを振り向くと、そびえたつ時限の塔。
此処は、塔の外。それだけを認知してジュプトルは歩き始めた。
どうして塔の外に出られたのかどうやって塔の外に出てきたのか、何もわからない。何一つわからない。もしかしたらこれは夢で、外になんて出ていないのかもしれない。もしかしたらこれは夢で、塔なんて最初から存在しないのかもしれない。
暗い暗い空の下、白い霧に包まれたような気分でジュプトルは歩く。
ふら、ふら。それは傍目にも、おぼつかない足取りで。
「止マレ。」
そこに声をかける者がいた。
声のする方を見ると、まず長い長い紫の爪が見えて、その先に無機質な硝子の目があった。
ヤミラミ、だった。
ヤミラミが1匹、こちらに爪をつきつけてきている。
「外出許可ガ出サレテイナイ。止マレ。ソシテ戻レ。」
機械的な音声が耳に響く。
ジュプトルはそれに耳を浸して、ぼんやりとヤミラミを眺めていた。
反応がないことを見届けると、ヤミラミはもう一度音声を告げる。
「外出許可ガ出サレテイナイ。塔ニ戻レ。」
ああ、この"人"は生きてるなぁ。
ジュプトルは眺めながらそう思っていた。
「外出許可ガ出サレテイナイ。塔ニ戻レ。」
機械的な音声だってしゃべっていることには違いない。唇が動いて、呼吸をして、声を出していることには違いがない。
「外出許可ガ出サレテイナイ。塔ニ戻レ。」
その腕は動いていて、その足は動いていて、その爪は動いていて、その眼球は動いていて。
「外出許可ガ出サレテイナイ。止マレ。ソシテ戻レ。」
その肌の下にはきっと、生きた血が流れていて。
「…オイ。」

「貴様、聞イテイルノカ?」

その、明らかに焦れたことを示す、とても"人間"らしい反応が。
ジュプトルに少しだけ前の記憶を思い出させた。
塔にいて、部屋にいて、手首、そう、自分の手首を切って
血が出て
自分の血が出て
そうそれは自分の血で
それはあくまでも自分の血であって

それ では だめ なの だと

思った から。








少しだけ軽い冷たい空気が、生ぬるく重たいものに変わった。
驚いて見上げてみると、そこには地面と空が見える。
ことりと視線を下ろしてみると
腕と足と胴体と胃と腸と心臓と歯と眼球と指と脳片があった。
「……あ。」
間の抜けた声が意味なく零れた。
どうしよう、と思った。
だって死んでしまったじゃないか。そのぐらいわかる。
べっとりと赤く濡れたリーフブレード。同じくらい真っ赤な自分の衣服。髪の先で揺れる内臓の欠片。
ヤミラミが死んでしまった。
生きていたものが死んでしまった。


生 きていたものが 死 んでしまった。


…びちゃびちゃびちゃびちゃびちゃびちゃッッ
瞬間、ジュプトルは地面に崩折れて嘔吐した。
「うッ…ぇえっ…うぇえ…ッ」
無尽蔵な吐き気と悪寒はいくらでも胃を絞り上げる。内容物があろうとなかろうと構わない。ぎりぎりと素手で掴まれるようなおぞましい痛みと不快感。もう止めてほしいのに、身体はまるで言うことを聞かなかった。
突き刺さる赤、赤、赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤。
一面赤に囲まれて逃げ場はなく、恐怖のままに目を見開くことしかできない。

けれど。
「…く、く。」
がたがたと全身を痙攣させながらも
彼の口から零れているものは 笑い だった。
しばし零れる上ずったような、肺が息を吸い損ねているような笑い声。
やがて大きく息を吸うと、ようやく安らげたように息を吐いた。
「…これで、いい…。」

かすかな痛みでは逃避を実感させるだけ。
生温い赦しではなく、振り下ろされる鉄槌が欲しい。
正気も臓腑も抉り取り発狂へ追い詰めるような"痛み"こそ
生きていていい、免罪符。

「…すまない、な。」
擦れて消えそうなその言葉は、誰に手向けたものなのか。






  マゾヒスト


(突き立った剣は、十字の碑。)


fin