雷が、鳴った。
どん…どん。遠くで鳴る鐘のように雷は断続的に鳴り続けた。ごろごろという余韻が風の音に混じって彷徨う。
どこかひんやりとした、生きた静寂。
それがこの岩がちな平原、エレキ平原の日常だった。
その岩の一つに背を預け、ぺたりと地に座る少女が一人。
赤い装丁の分厚い本を黙々と読みふけっていた。
深緑のローブで全身をすっぽりと覆い、ご丁寧にフードまで深く被っている。その隙間からはわずかに金色の髪が零れていた。
首元でローブを束ねているのは、ずっしりと重そうな銀の十字架。
鋭く磨き上げられたそれは…逆向きの十字架、だった。
今日は普段よりも一層雲が濃く、闇も濃い。本の文字が読みづらい。
少女の紅い瞳は涼しい色で文字を追っていく。
それでもやはり読みづらかったのだろう。普段よりも文字に意識が集中していたのだろう。
雷の白光が少女を照らした刹那
少女の眼前に、厭らしく笑んだ男がいた。
「ッ!」
気づいてももう遅い。
男は少女の腕をひっつかみ、岩陰から引きずり出す。そしてにやにやと笑んだままで少女の腹を容赦なく蹴り上げた。
「ぐぶ…ッ」
12歳の少女の身体はボールのように宙を舞う。どさりと落ちたそこは、似たような背格好の男達に囲まれていた。
独特の模様が彫られた木の剣を、めいめいその手に持っている。
その顔には整然と同一な笑みが浮かんで。
「始めろ。」
――耳をふさぎたくなるような打音が溢れ返った。
剣が剣が剣が幾度も幾度も少女へと少女へと。
まるで豪雨でも降るかのように音が降る。その一音一音が殴打であるというおぞましさ。
そしてその中心にいるであろう少女は
遥かに年長である集団から異常な殴打を浴びる少女は
うめき声一つ、あげなかった。
「…よし、もういい。」
号令をかけたのと同じ、傲然とした声が言った。
それを合図に打音がぴたりと止む。そして少女を囲む輪が散った。どれもプログラムされたかのように均一な動作。
さらけだされた少女は無言でうずくまっていた。ローブからはみでた腕や足は吐きそうになるなほどグロテスクに変形しており、音もなく赤黒い血が地に染みる。けれど少女は絶命もせず気絶もしない。偶然ではなく必然。計算しつくされた暴力。
そんな少女を…じっと、声の主は見ていた。
「先祖代々の伝統とはいえ…いい気はせんな。こういう事は。」
体格のいい初老の男は、苦々しい面持ちで言った。
「我らが聖なる地が、穢れた血で汚されるのは。」
――太古の時代、この地には二つの種族が住み着いていたという。
荒い黒髪、雄々しい咆哮、力の一族…レントラー。
鋭い金髪、ひらめく一閃、賢の一族…ライボルト。
繰り返されてきた二族の戦い。広大な平原の覇権を巡り、幾千年にも渡りながら。
この地に根づく歴史も文化も、二族の戦いと共に育まれてきた。
…だけどそんなことを知る者も、信じる者ももういない。
百年前、戦いが終わりを迎えてから。
戦いはレントラー側の大勝利。レントラー達は平原の支配者として君臨し、生き残ったライボルト達は日陰へ日陰へと追いやられる。
玉座に就いたレントラーの長。彼は手にした栄光を守るべく、素晴らしい名案を思いつく。
この獅子の王はひどく賢く
そして
酷く残虐であったのだ。
『…我々はこの地に君臨せし者、そして同時にこの地を護りし者である!
我々は常に悪魔と戦い続け、この地に聖なる加護をもたらすことを此処に誓う!
純正なる血でこの地を満たし、この地の平和を未来永劫に約束しよう!
我々は悪魔を…"穢れた血"を、狩り続ける!』
ざぁ…いつのまにか平原に、本物の雨が降っていた。
少女の赤黒い血だまりを雨が流し、地面は本来の色を取り戻す。
男はレントラー。純正な血を持つ"選民"。
少女はラクライ。穢れた血を持つ"非人"。
太古からの歴史は葬られ、この地に残されたのは歪められた偽りの歴史。
史実を知る者はすでに死に絶え、"教育"された民達が平原に住まう。
誰も気づきもしないだろう。
何故ライボルト族が未だ根絶されていないのか。
何故時折思い出したように王が悪魔を狩ったと報されるのか。
"悪魔"で築いた聖人の地位は、"悪魔"無くては保てないのだ。
「見よ…早速神の加護だ。神はいつでもこの地を清めてくださる。」
三代目の獅子王は自慢の黒髪が濡れるのも構わず、くつくつと笑みを零す。
少女は俯いていた首をあげ、声のする方をゆらりと見つめた。
紅い紅い双眸がじっと男に向けられる。
男はすぐさま汚物でも見たかのように顔をしかめ、何か合図をした。再び少女は張り飛ばされた。
その拍子に何かが少女から飛ぶ。それは先ほど読んでいた本。殴られている間もずっと抱えていた真っ赤な表紙の本だ。
手放したと気づいた瞬間、少女がさっと青ざめる。
ぐしゃぐしゃに折れた腕を伸ばすも切なく、本はべしゃりと濡れた地面に落ちた。
「…害獣が何をしようと知ったことではないが、貴様もよくよく愚かだな。」
運悪く、本が落ちたのは男の足元。
雨に打たれ、赤色の濃くなった表紙を男はじっと見下ろしていた。
「目立つ色の本を読み、首には大きな逆十字。他の連中と違って貴様だけは実に見つけやすい。…狩られるのはこれで何度目だ?おい。」
男が笑えば周辺に控える男達…ルクシオ達も、同一に笑う。
「ふん、まるで本当に魔女のような出で立ちだな。反逆気取りか。馬鹿も大概にしておくことだ。」
男の大きな足が、ふいに持ち上げられる。本の表紙にその影が落ちた。
少女からさらに血の気がひいていく。やめろ、やめろ、やめろやめろやめろ。
「存在そのものが、神への冒涜なのだからな。」
ぐしゃッ!
――ライラ。
それはふとした折に蘇る、数少ない母親の記憶。
『ライラ、ご本読んであげるわ。』
母の手にはいつも赤い表紙の本があって、古代語でかかれたその本を絵本代わりに読んでくれた。
もう他のライボルトだって読めないような、遠い遠い昔の言葉を
母はすらすら読んできかせてくれた。優しく、優しく、温かく。
『あたし、レントラーをたおす!あたしたちをこんなにいじめて、ゆるせない!』
『あらあら、勇ましいわねぇ。』
そう言って笑って流す母が嫌いだった。自分は真面目に言ってるのに。幼い子供だって、身の上くらいはわかっているのだ。
いわれのない差別を受け続けている自分の一族。
耐えられずこの地を捨てて出て行った父親。
矢表に立ち悪意を浴びる母親。
百年前に群れを治めていた長の末裔として、レントラーからも、そして、他のライボルトからも。
『たおすったらたおすの!わるいれんちゅうみんないなくなればいいのよ!』
『あら、レントラー達は悪い人達なの?』
『なにいってんのそうにきまってるじゃない!!』
あれだけ毎日痣作ってるのに!少女は信じられなくて思わず叫んだ。
『そうかしら。戦争に悪い人なんているのかしら。』
母は決まって目を閉じて、優しく口元をほころばせるのだった。
『レントラーがたくさんのライボルトを殺してしまって、ライボルトがたくさんのレントラーを殺してしまった。どちらもおんなじ、かなしい人達。』
お母さんは、そう思うわ。
最後ににこっと笑顔でそう言われると何も言えなくて、少女は苦々しく口を閉じるしかないのだった。
けど、少女は知っている。
どちらの勢力も責めない母だけれど
ひとつだけ、まるで未練のように、さびしげに微笑むことを。
『…この土地の神様は、私達を見てどう思うかしらね。』
…雷鳴が、轟いた。
叩きつけるような雷鳴、うなるような余韻、
嬲るような風、撃つような豪雨、
ぐしゃぐしゃに潰された、真っ赤な本。
ぐしゃぐしゃな少女が、立ち上がった。
首から逆十字を…鋭く磨き上げられた銀の十字架を、引きちぎって。
「――ッあああああああああああ!!!!!」
一切の音を切り裂いた凄絶な咆哮。
少女は走る走る走る、奔る。本を踏みつけた忌々しい男へと!
控えていたルクシオ達が少女へと襲いかかる。振り下ろされる木の剣。少女の十字架が受け止める。
がぎぃッと、醜い音を立てて交わる剣。
少女は滅茶苦茶に十字架を振り回した。触れたルクシオの腕がばっくりと切れる。次々と、次々と、血しぶきが飛ぶ。
それは少女が流した血と、同じ色だった。
レントラーもライボルトも、赤くて黒い血を流していた。
――母さん。
遺品の十字架を血染めにしながら、少女は想った。
ごめんなさい、母さん。私には無理だったよ。
私は母さんみたいに、綺麗な人にはなれないよ。
神様って、何?
神様の為に血が流れる。
神様の為に誇りが奪われる。
神様の為に傷をつけられる。
神様の為に、人が死ぬ。
それでも笑えと言うのか、神よ。
誰も悪くないと言うのか、神よ。
それが歴史だから。人が生きゆく道だから。大いなる時代の流れだから。
終わりまで耐えろと言うのか。
終わりこそが救いだと言うのか。
鳥と蛆にたかられて死んだ無残な母。
あんなものが、あんなものが救いだとでも言いたいのかッ!!
二、三人の首が血を吹いたところでどのルクシオもためらいだした。
向かってこなければルクシオなどどうでもよかった。少女は走る。残虐なる王<レントラー>へと。
殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ。
はじける憎悪は電気のように。
血走った血色の瞳
レントラーの首を、捉えた。
「…くだらんな。」
…びたっと
無理やり動きを止められる感覚。
荒れ狂っていた鼓動は、急に無機物のように凍りつき
少女の頭は、視界は、真っ白になった。
少女の脳天からつま先まで、特大の落雷が貫いていた。
「…何か勘違いしているようだから言っておこう。」
ど、さ。倒れた少女に一瞥すらよこさず男は言った。
「貴様の受けた傷も、苦痛も、全ては理不尽ではなく当然のもの。」
「我々は、"勝者"…貴様らは、"敗者"だ。」
…それだけ言うと男は、踵を返して帰路についた。
運よく殺されなかったルクシオ達も、怯えた顔で慌てて続く。
殺されたルクシオの遺体など、男は見向きもしない。
生と死は、勝利と敗北。重々しい足音が冷たく言い放った。
少女は、想った。
ああ、敗けたのか…私。
容赦なく降る雨は、燻ぶる怒りも否応なく冷やしていく。
消えていく四肢の感覚。奪われている、と感じた。
どこかに飛んでいった十字架。ゴミくずと化した本。冷えていく身体。かすんでいく意識。
ああ、もうなんにも無いじゃないか。
全部、奪られてしまったじゃないか。
世界は徐々に白さを増していく。強制的な安らかさが心に満ちる。
もしかしたらこれこそが、神の用意した"救い"なのかもしれない。
ありえそうなことだ、と少女は笑う。
失われていく意識の中で、最後に少女は呟いた。
糞野郎。
*
「…ちょっとミズハ!そんなに使ったらただでさえ少ないオレンの実が…!」
「だってこのままじゃ死んじゃう…全然目を覚まさないし…」
「でもこの子、この特性があるから…」
「そんなのわかんないよほら…」
…言い争う声が、聞こえてきた。
煩いな…と眉をしかめながら、少女は渋々目を開く。
「…あ!起きた!」
途端、言い争いがぱたりと止まる。片方の少女がぱたぱたと走り寄ってきた。
「お、おはよ、じゃなくて…痛くない!?」
「…は?」
振り乱れた青い長髪とえらく真剣な黒い瞳。あんまり相手が慌てているものだから、逆に少女の方が落ち着いてしまった。
「…平気。この通り。」
口に出してから、え、と固まる。
私…死んだはずで、は。
「ほ…ほんと?」
「ま、まぁ…。」
「………。」
青髪の少女は絶句して驚くと、ずるずると床にへたりこんでしまった。
「ちょ、貴方大丈ッ…
「ミズハ!?大丈夫!?」
かぶさるように声をあげたのは、もう片方の赤髪の少年だった。赤というより橙色だが。
「だ、大丈夫…安心しすぎてぐったりしただけ…。」
「あぁもー、だから言ったじゃない…ライボルト族は『ひらいしん』を持つから大丈夫だよって。」
「それはあくまでヒカトの知識だもん。ホントに死んじゃってたらどうするの。」
ヒカト、と呼ばれた少年が言葉に詰まる。尚も見据える黒の瞳にヒカトはたじたじだ。
それを眺める少女は呆然としていた。なんなんだ、この状況。
もしかして私は…この二人に、助けられた?
「…ほ、ほらミズハ!あの子困ってるよ!」
「え、あ…ご、ごめんねっ」
ヒカトの苦し紛れな台詞に、ぐるっと大げさに青髪が揺れる。
そして改めてこちらを向き直り、黒い瞳に凛とした光を宿して…ミズハと呼ばれた少女は、こう言ったのだった。
「私、ミズハ。あなたは…なんて名前?」
…名前をきかれたのなんて、久しすぎて驚いて
嫌いなはずの自分の名前を、少女は思わず呟いてしまった。
「…ライ、ラ…。」
少女はまだ、この先を知らない。
運命の出会いなんて、戯言だと思っていた頃。
Chronicle 2nd
(終わり逝き、そして、始まり行く。)
fin.
****
タイトルはSoundHorizonのアルバム名より。