…ばしゃっ
ばしゃばしゃばしゃっ、ばしゃっ

酷い嵐の夜だった。
夜闇を凌駕する暗闇がたちこめる、どろりと濁った暗い夜。雨は機関銃のように地面を打ちつけそこら中に跳弾していた。
幾筋もの雷が、地に刺さる。
その閃光が弾ける刹那、まばゆく照らし出される地面。それだけを頼りに、否、それすらも頼りにせず、その影は走っていた。
早く、早く、早く。
もっと早く、もっと、速く。
黒い森の中を影は走った。暗い、なんてものじゃない。光のない景色など黒一色の無視界にすぎない。
その中をがむしゃらに走り続けるものだから、絶えず枝の折れる音が耳に届いていた。時々、ざくっ、という音も。先刻雷が光った時に、飛び散る鮮血がかすかに見えた気もする。
ざざっ、と茂みを揺らして何かが襲いかかってくる。おそらくこの森に住む野生ポケモン。
影はひとつ舌打ちをすると、迷いなく剣を閃かせた。
「―――其処を退けッ!!」
一振り。襲いかかってきた何かは瞬時に散らされ。
次の瞬間には影は数百m先へと、それらを一瞥すらせず駆けていった。
暗い闇の中走り続ける。光も得ぬまま疾り続ける。
騒々しく照らす雷光など、彼の求めるものではなかった。
俺が求めるのはひとつだけ。求める光は、一人だけ。
頼む。小さく、呟いた。どうか、どうかどうか、どうか。
枝の折れる音が、唐突に終わった。
雑木を抜けたのだ、と理解する。気がつくと、其処は地面を判別できる程度には明るかった。おかげで両腕両足ぼろぼろの血まみれな現状も理解したが。
おぼつかない足取りで、一歩。足から嫌な痛みが染み刺さる。
それでもなんとか、明かりの中心である小さな湖に辿り着いた。
「…これが…。」
蒼く、碧く、吸い込まれそうなほど透きとおった光。湖に描かれた紋様の中、静かに収められた六角形の歯車。
全身に奇妙な火照りを覚えながら、彼はそっと湖面に指を伸ばした。
「これが…時の歯車、か…。」
…けれど。彼の指は止まった。
それすらも、彼の求める本当の光じゃない。
指を止めて、ぐるりと周囲を見渡した。このあたりは時の歯車の放つ光のおかげで、ぼんやりとだが景色は視認できる。
光の届くぎりぎりのエリアまで目を凝らした。360度全ての方位を見渡した。
けれど何も見つからない。
誰も、見つからない。
黒い森に囲まれた小さな青の空間。雷雨の音さえ遠く感じる。其処は虚空。此処は、虚空。
ただ純然とそこにある、"孤独"。
それは指先から腕へと、呼気から肺へと染みわたり…彼の芯を、ゆるやかに凍らせた。



『一応、さよならと言っておくわ。』
それは過去へ旅立つ直前に、ミズハがリヒルトに言った言葉。
『ちょ…待て。まだ何も始まっては…』
『馬鹿ね、何も始まってないから言うのよ。今はまだ始まってないから、なんでも言える。』
濃い灰色の瞳はその日も平素通り、怜悧だった。
『始まってからも、こうして二人並べるとは限らないでしょう?』
…その時、自分はどんな顔をしていただろうか。ただ、返す言葉を失ったのは覚えてる。
少女の真意は十二分に理解していた。これからが、始まり。勝手知ったるこの時代から、右も左もわからない未知の時代へ俺達は旅立つ。
ちゃんと同じ場所に渡れるかもわからない。同じ時代に渡れるかもわからない。
どちらも生きて、渡れるなんて、保障もない。
しばしリヒルトを眺めていたミズハは、はぁと溜息をついて彼に近づいた。
『…何を今更、そんな顔してるのよ。』
ぐいっ。急に首のスカーフを引っ張られた。突然だったせいでがくんと頭が下がる。そしたら今度は頭に手を乗せられた。
がしゃがしゃがしゃ。その手は無造作に左右へ動く。
あんまり粗雑でその時はなんだかわからなかったが…それは、今思えば。
『リヒルト。"一応"、さよならと言っておくわ。』
手を止めて、離した。彼女の体温が離れていく感覚が、妙に生々しく。
『でもそのままさよならするために、私達は行くんじゃない。』
ようやく頭をあげることができて、彼女の顔を見ることができた。
『私達は、時の歯車を求めることで、常に繋がれるはずよ。』

そうでしょう、私の相棒<パートナー>。
ミズハは微笑っていた。自信と、覚悟の、小さな笑みを。



「…ミズ…。」
呼びかけて、止めた。欲しいのは、そんな慰みの繋がりじゃない。
ぎりっと歯を噛んで意識を戻した。背を向けていた湖面を振り返り、きっとその中心を見据える。
そこにはまだ、美しく輝く時の歯車がある。おそらく、そこに存在してこそ美しく輝くのであろう、時の歯車が。
だけれど、そんなことは。
今の彼には知ったことではなかった。
(…そうだな。)
今なら、彼女の言葉の本当の意味がわかる。
(求め続ければ…必ず、出会える。)
同じ目的を求め続けることで
同じものに向かって走り続けることで
どんなに遠い地に飛ばされていても
いつか、必ず。…必ず。
…湖面が揺れた。
細い風が吹いて、次の瞬間には誰もおらず。
雨が絶えまなく降る。雷は鳴り続く。木々の葉は強風に揺られざわめく。
そして…静寂。
森は、静かに凍りついた。


信じて、いいんだろう?
お前はちゃんと、どこかに"居"ると
信じていいんだろう?…相棒<パートナー>。





嵐 の



fin.