反射的に、謝罪をしそうになった。
だってそれは、懲罰としか解釈のしようがなくて。



Traffic light



「…あれ、いない。」
呼び出しに応じて仕方なく来たルワーレの研究室。着いてみればドアの表示板が『不在』となっていた。おい、なんなんだ呼び出しておいて。俺の空き講を返せ。
しかし『帰宅』になっていないということは、一時的な用事なのかもしれない。
律儀なリヒルトはドアの横へとその背を預けた。程なくしてごうごうとエレベーターが昇ってくる音が響く。目をやってみれば予想通り、呼びだした張本人が廊下へ出てきた。
ただし女性連れだったのは予想外だったが。
目を丸くするリヒルトの前で、二人の会話は和やかそうに進む。和やかというか、女性の方がテンションが高いように見える。それにルワーレがにこやかに応じているといった様子だ。
やがてルワーレがひらひらと手を振ると、女性も弾んだ笑顔で手を振って。それで会話は終了したのだろう。
こつこつと聴き慣れた靴音が、こちらへと向かってきた。
「おはようございます先生。呼び出しがあってこっち来たんです…がッ!?」
リヒルトの台詞は最後だけ跳ね上がった。
ルワーレがすれ違いざま、えらい乱暴にリヒルトの腕を引いて連行したからである。
「はー…。」
ばったん。
連行先は当然研究室であって。荷物でも床に降ろすようにリヒルトは放り投げられた。見事にこける。
「あーもう、なんなんですかまったくもう。」
「それはこっちの台詞だああああッッ!!!何だ貴様呼び出しておいてッ!!」
「…ん?あ、いたんですかリヒルト。」
いたんですか、だと。
さすがに拳の一発でも入れようかと思ったが、そんなことは意にも介さずルワーレは苛々と首を振った。
「いきなり学校に現れてはべたべたとくっついてきてあの女…何を考えてるんだか。」
「あの女…ってさっきの女性か。」
「随分前に振った女ですよ。名前思い出すのに苦労しました。」
げ、と口元がひきつるのをリヒルトは感じた。一時でもこの変態教授と交際。なんだそれ正気か。
それを見て何を勘違いしたのか、ルワーレは微笑んだ。
「おや、妬いてくださるんですか?」
「今の話のどこに俺が妬く箇所がある。」
「つれないこと言いますねぇ。まるで興味がないみたい。」
そこそこの量を抱いてきたんですけどね、この腕で。
そう言って一本しかない腕をもちあげ、くす、と笑む。免疫の薄いリヒルトは少し複雑な気分となるが、しかし。
結局は、それだけで。
当然と言えば当然なのだけれど。もやつきを吐きだすように、溜息をついた。
「…俺にふざける暇があるなら、少しは女性に優しくしてやったらどうだ。」
どう間違ってこいつと付き合ったのか知らないが、そんな物言いじゃ相手が可哀想だ。
本当に何を血迷ったんだろうなぁ…と思いながらルワーレを見やる。すると赤い目も、こちらを向いてることに気がついた。
様子がおかしい、と気づくのは3秒後。
その間、呆けたようにこちらを見つめたままの赤い目に。
「おい…どうした?」
声をかけると少しだけ揺れた瞳。
答えは返ってこず、瞳は伏せられ、次にその色を輝かせた時には、もう。
弾け飛ぶ鮮血のような、赤だった。
…がしゃっ、と。
背後の本棚が音を、立てた。
「なっ、」
言葉が続かなかった。痛む後頭部が意識を滲ませる。
両の目の上には筋張った成人男性の手があって、本棚へと頭を押しつける。前が見えない。そのせいか、痛みが鮮明。
「…痛いですか?」
問う声は不思議なくらい穏やかだった。
ぱさ、と。軽いものが落ちるような音は気のせいだろうか。
「いた、い…。」
「そうですね。痛いですよね。」
「何を、して…。」
「…さぁ、ね。何をしているんでしょう。」
クイズにしましょうか。答えられたらレポート免除しますよ。紡がれる戯言。日常的な声色。
その度に首筋から差し挟まれる、非日常。
目も見えず、知識も体験もないリヒルトには何が起きているのかわからない。ただただ首筋を襲う痺れが、恐ろしい、と感じた。
「先っ…せ、離して…ッ」
「それではクイズになりませんから。」
冷酷な返答だった。
首筋の痺れは止まらない。蝶が止まる程度の軽い感触しかしないくせに、瞬間で手足の神経が麻痺を起こす。熱い。でも、寒い。手が、震え、る。
首を振ってもがこうとすればより一層強く押しつけられた。拙く伸ばしかけた腕は本棚へと(おそらく足で)叩きつけられる。うぁッ、と思わず呻くと、忍び笑う気配がした。
反射的に、謝罪をしそうになった。
だってそれは、懲罰としか解釈のしようがなくて。
一体俺は何をしただろうか。俺は何をされてるのだろうか。わからない。わからない。答えの出ない時とは、新月の夜のようなもの。
研究者が常に探し求めてゆく、答えという名の光。
彼らは勇敢なのではない。暗闇を恐れる、ただの臆病なヒト。
「…ッわかり、ません…!」
遂にリヒルトはギブアップをした。普段なら絶対に選ばない、手段を。
ルワーレの気配が止まる。止まったまま、空気も止まる。どこからか聞こえてくる、時計の音だけが鮮明。
「…"嘘"はとても、楽なんですけどね。」
吐くのも、吐かれるのも。
目を覆っていた手が緩んだ。筋張った細い手がそっと離れていく。やっと、目が見える。リヒルトは息を吐こうとして、吐けずに、止まった。
目を開き、最初に取り戻した光の色が
あまりにもあまりにも"わからない"、赤色だったから。

「―――"真実<コタエ>"とは時に、痛いものですね。」

気づくと、首を引き寄せられていて。
鎖骨に牙が、確かに、刺さった。

fin.